Last Time・幸せのフラッシュバック

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Last Time・幸せのフラッシュバック

 ――まるで匂いを辿ってきたかのように、広いキャンパス内でもジョンは上手に恵を見つけた。 『今日こそは名前、教えてくれますよね?』 『なんだその自信』 『だって今日は、運命的に先輩と俺が出会ってから三カ月記念日です!』 『ああ、お前のストーキング歴と同じ日数な』  ジョンからの熱視線も気にせず、握り飯を頬張る恵はもうずいぶん絆されている。  三カ月も纏わりつかれれば男がそばにいることに慣れ、健気な姿がなんとなく愛らしいものに思えていた。実は整った顔を隠すもさっとした見た目も、毛量の多い犬種みたいで案外可愛い。  だからこの日、張っていた意地を捨ててようやくヒントをやった。 『つーかお前、人に名前訊く時は自分が先に名乗るもんじゃねえの』 『それもそうですね。俺は上条恵です』 『恵な。俺は木場。木場美貴春』  しばしキョトンとしていた大きな男が、人目も憚らず盛大に泣き始めた。  隣にいるジョンも、すん、と鼻を鳴らす。 「うん、そう……うれしくって……」 「知ってる。お前は……恵は、昔っから涙脆かった」  この一年で役人に何度も呼ばれた名詞なのに、ジョンのものだと認識して口にすると胸の奥が震えた。滲む涙を袖で拭うと、恵は力無い笑い声をどうにかこうにか絞り出す。 「ミキさんも……でしょ」 「うるせえわ」  公衆の面前で男泣きする恵を、必死で慰める自分から視線を剥がす。白いばかりで面白味のない巡り廊下は先々まで、美貴春の記憶で彩られていた。  そんな賑やかな場所を、二人で時間をかけて進む。時折、膝から崩れ落ちそうになる恵を抱え直して、一歩一歩、確かに。  ――いつしか下の名前で呼ばれるようになって、美貴春も恵を渾名で呼ぶようになった。  週末でバイトがない日は示し合わせたわけでもないのに、一緒に過ごした。美貴春の部屋には、恵専用の座布団とクッションが当たり前に存在していた。 『どうしてミキさんは、俺をジョンって呼ぶんですか?』 『お前ワンコみたいだからなあ』 『わん』 『馬鹿。それに恵ちゃんってあいつらに呼ばれてんの、嫌なんだろ』  無意味に呼んでも恵は嬉しそうに破顔するから、優越感が胸を満たしていた。  美貴春は気にしないのに、隣を堂々と歩きたいからと、恵は見た目に気を遣うようになった。そうするととにかくモテるようになってしまい、童顔寄りなのもあってか、「ちゃん付け」で呼ばれることが増えたのだ。警戒心が強く、美貴春以外に懐かなかったのも、余計に女性陣の関心を引いたのかもしれない。  恵が周囲に溶けこむのは喜ばしいはずなのに、美貴春は自分だけの恵じゃなくなっていくようで、少しだけ不満だった。  誰も呼んでいない渾名を探したら犬みたいになっただけだ、とは、結局照れくさくて教えてやれなかった。  ――発信履歴が恵の名前ばかりになって、そばにいないとき無意識に名前を呼びかけて、美貴春はいよいよ白旗を上げた。  どちらかと言えばいかつい見た目の美貴春を、恵は「夜遅いから」という理由だけでバイト先まで迎えに来る。そんな後輩と並木道を歩く時間を、美貴春は愛しく感じていた。  切り出すには十分な理由だった。 『そういや、最近告白されてねえな』 『はい! 押して駄目なら引いてみろって雑誌に書いてあったんです。どうです?』 『何読んでんだ……馬鹿か』 『駄目でしたか……』  しゅん、と落ちこむ男の肩に、美貴春は自分の肩を少々乱暴にぶつける。 『百五十回を過ぎた辺りから、二百回目で落ちてやってもいいかって考えてたんだけど』 『え!? それホントですか!? あ、じゃあ今から二百回目まで一気に……あと何回でしたっけ?』 『一回だよ、馬鹿』  あと一回だなんて、本当は嘘だった。  すぐに「俺も」と言ってふわふわの頭を腕に抱いてみたくて、バレるのを承知で嘯いた。  結局はどこまでも素直な恵が疑いもなく「大好き」と言って笑うから、吐いた嘘を一生かけて償おうと決意することとなった。  ――恵は付き合い始めてからも無鉄砲さが治らなくて、よく美貴春をヒヤリとさせた。  身体は丈夫なのに運動神経が悪くて鈍臭いから、美貴春の家の救急箱は常に恵のために存在していた。  包帯でガーゼを固定した美貴春は、早く治るようにと祈りをこめて彼の手を撫でる。 『割れた皿を素手で拾い集める奴があるか、馬鹿』 『すみません……ミキさんのお気に入り……』 『んなもん別にいいんだよ。お前の手が図面引けなくなったらどうすんだ。いつか住む家の設計すんのが夢なんだろ』  恵は大卒後に工務店で働きつつ、一級建築士の勉強をしていた。二人で暮らす家は自分で設計したいのだと、夢に向かってひた走る姿はとても眩しくて、愛しかった。  ――たまに喧嘩して、その日のうちに仲直りして、そんなふうに美貴春と恵は一緒に暮らすようになった。  掃除をするのは恵で、食事を作るのは美貴春。あまり凝ったものは作れないが、恵はいつもうっとりと目を細めて美貴春の料理を食べていた。 『そんな美味いもんでもないだろ』 『美味しいですー。これ、食感楽しい。レンコンか何かですか?』 『まあな。味わかるか?』 『それはあんまり』 『あとで珈琲淹れてやろうな』  付き合ってから、恵が味覚障害であることを知った。彼は覚えていないらしいが、幼少期に親から虐待を受けて施設で育ったそうだ。  当時のストレスの後遺症なのか味覚が鈍く、けれど味の濃い食事ばかりでは身体を壊すのではと不安になった美貴春は、香りや食感に気を遣うようになった。  それでもお気に入りの濃い珈琲だけは、一日一杯、必ず淹れて飲ませてやった。  ――恋愛感情は三年しか続かないと言うが、恵の愛情は年々増しているように思えた。 『ミキさん、死んじゃ駄目です……っ』 『いや、ただの盲腸だからな? もう手術終わったからな?』 『ミキさん……!』  点滴の刺さった腕へさりげなく頭をすり寄せ、恵はしとどに泣いている。 プライベートを守るカーテンの向こうで、担当看護師が狼狽えているのが見えた。しかし美貴春の優先事項は術後の処置より、本気で泣いている恵を甘やかすことだった。 『ほら、来い。慰めてやるから』 『ミキさんが死んだらあと追いますから!』 『お前粘着質な……』  美貴春は涙で汚れた不細工な顔を見て、置いて逝くくらいなら連れて逝こう、と思った。  一人にする日を想像すると、不安でオチオチ棺桶にも入っていられない。  美貴春が「お前も来い」と言えば、恵は喜んでついてくる。生い立ちのせいか自分だけが独り占めできる愛情に貪欲な恵は、美貴春がいなければ生きていけないだろうから。  そんなふうに、恵の未来を軽んじてしまった天罰だったのだろうか。  美貴春は次いで浮かび上がった記憶の舞台が、雨の降る大きな交差点であることに諦念を抱いた。片側三車線の道路には、大勢の人と車が規則正しく交互に雪崩れこんでいく。 「そうか……ここだったんだな」  呟くと、恵がゆったりと美貴春の肩に頭を置いた。薄いTシャツが少しずつ、温かな想いで濡れていく。 「……こわい?」  これから何を見るのか、粗方予想はついている。けれど美貴春は首を横に振った。  死に際を知ることは怖くない。そんなことよりも、美貴春の死を見てしまう恵が、自らの涙で溺死してしまうんじゃないかと不安が過ぎった。 「大丈夫だ」  肩にある男の頭にこめかみを預け、傘を差して信号待ちをする自分たちを見つめた。  ――それは朝から土砂降りが続く、久方ぶりに休日が重なった日。昼間であるのが嘘のような薄暗い雨雲の下、学生時代に何度も通った懐かしい喫茶店へ向かう途中だった。  速度超過の車が、雨と傘のせいで視界不良な交差点を渡る歩行者に突っこんだ。甲高い悲鳴と、耳障りなブレーキの音が人混みを恐怖で強張らせる。  運転手は慌ててハンドルを切ったようだが、濡れた路面をスリップした車はコントロールを失っている。大きなワゴン車がこのあと、どんな軌道を描いてどこにぶつかって止まるのか、美貴春は冷静に分析して悟ってしまった。  反射神経の鈍い恵を連れて二人で避けきるのは、空でも飛べない限り至難の技だろう。  そう思ったときには、恵の腕を掴んでとにかく遠くへ押し飛ばしていた。 『……ミキさん』  打ちつける雨の匂いに、錆び臭さが混ざった。さっきまで全身を支配していた激痛も段々と薄れていく。 『投げて……ごめん、な、痛いとこ、ねえか』  抱き締められるまま恵の腕に身体を預け、愛しい存在を五感の全てで味わった。  無茶苦茶な力加減の腕がくれる苦しさも、匂いも体温も、最期まで愛していたかった。 『連れていこう、って……思ってたけど、やっぱ、来んな……まかり間違っても、あと追いとか、すんなよ』  激しく泣き喚いていた恵が、弾かれたように美貴春の肩口から顔を上げる。そして千切れそうなほど、首を横に振って拒絶を示した。 『嫌、嫌です、無理です、ミキさんがいないとこで生きれない……っ』 『アホか、……いつか、ちゃんと寿命で、来いよ、怒るぞ』 『じゃ、あ……っあなたが死なないで! 俺なんか庇って、先に逝かないで! あなたがいればそれでいいからっ! お、お願いします、なんでもする、するから、ぁ……ああっ、嫌だ、嫌だ!』  遠くから聞こえる耳障りなサイレンが、早く止むように願った。できるならば周囲の野次馬も、もう少し声を潜めてほしい。  静かにしてくれないと聞こえない。恋人の声が、しゃくり上げる悲痛な泣き声が、雨と雑音でかき消されてしまう。 『お、前が……来る気、なら、……全部、忘れて、……やるか、らな』  この期に及んで「大丈夫だ」なんて見え透いた嘘は吐けなくて、苦し紛れに彼を脅した。  連れて逝くことなんて、できるはずがない。  死を目前にした美貴春は、彼の生しか望んでいなかった。生きてさえいてくれたなら、この死には意味が生まれると本気で思った。  視界が狭まっていく。必死で血液を循環させていた心臓も疲れたのか、歩みを鈍らせていくのが手に取るようにわかった。  恵は泣き喚くのを止めた。美貴春の最期がひたひたと近づいてくるのを、すぐそばで感じ取ってしまったのだろう。 『……っいいです。どうぞ、忘れてください』  恵がこんなにも泣いているのに、おかしな方向に曲がった腕では抱き締めてやれない。  慰めたくても、口から出るのは逆流した液体だけだ。 『もう一度口説いて、また、好きになってもらいます。俺、しつこいんで、絶対、……』  その先は聞こえなくなった。  ふつ、と映し出されていた記憶が消え、巡り廊下には不気味な静寂が舞い戻った。  そして現れたのは、始まりの扉。膝が震えそうな恐怖が今日は一段と酷い。 それでも恵は、必死で笑い声を上げた。 「恵。見たか。俺、お前を庇って死ぬって決まってた」 「……うん」 「カッコいいだろ。好きな奴守って死んだんだぞ。こんな誇らしいこと、ないだろ……っ」  この世界にやってきたときから変わらなかった誇らしさに、ようやく合点がいった。  亀裂から徐々に崩れていく交差点で呟いた名前も、役人に連れて来られた恵にキスをしてしまったことも、他の人の比ではないほど、彼の浄化を目の当りにして恐怖を感じてしまった理由も、全て納得できる。  当然の反応だったのだ。学生時代からずっと、三十代も半ばに差し掛かったって、そばにいた。この先も一緒に暮らし、平々凡々に歳を食っていくのだと確信していた。  全ての記憶が戻り、情報量の多さに驚く頭がクラクラと揺らぐ。恵の肩をどうにか抱いたまま、美貴春は温い涙の中へ座りこんだ。 「ごめんな。生きててほしいって、俺の我儘だったな。俺の勝手で、怖い思いさせたな」  生きていてほしかった。その思いは全て思い出した今でも変わらない。けれどあの事故のあと、四十九日間も一人で苦しんだ恵を思えば彼の選択を叱る気にはなれなかった。  恵はゆっくりと瞬いていた視線を、美貴春の顔に向ける。脱力して涙に浸っていた手が、美貴春の頬を倦怠感たっぷりに撫でた。 「ごめん、ね、ミキさん……わかってたよ、でも……どうしても、こわかった」 「馬鹿野郎」 「ふふ、……おれのミキさん、おれの……やっとあえた、これでちゃんと、……もうこわくない」  腕の中に飛びこんできた男を、美貴春は両腕で抱き留めた。柔らかい茶髪に鼻先を埋め、懐かしい香りで肺を満たす。  昔から美貴春は恵に甘い。叱責するならば、彼が一人になっても大丈夫なよう育ててやれなかったことだ。二人の倫理観はとっくに、定められたモラルに背を向けていた。 「そうだな。仕方ねえ。間違ってても、愛してるから」  微かに吹き出したとき、水をかき分ける音がした。  振り向くと、重そうなコートの裾を軽く持ち上げた役人が近づいてくる。  恵は予想外の乱入者が声の聞こえる位置まで来てから、呆れ笑いを投げかけた。 「入れたな」 「入れたよ。飴ってとても甘いんだねえ」  コロコロと飴を転がす役人は、彼らしくない、自然な笑顔で口元を綻ばせる。 「見送りがないのは寂しいだろう? それに僕はまだ、友人の本当の名を呼んでない」 「ここで出会った役人が、お前でよかったよ」  美貴春はぶっきらぼうにそう言って、恵を抱えたまま立ち上がる。すると役人はどこか焦りを滲ませて引き留めた。 「行くのかい」 「このまま扉をくぐれば、記憶を持って生まれ変われるかもしれねえんだろ」 「そうだけど、おやめよ。痛いかもしれない。苦しいかもしれない。どんなことが起こるのか、入ったことのない僕にはわからない」 「馬鹿言え、それをわかってて、お前は見送りに来たんだろうが」  魂の輪廻を嫌がる役人は、概念として矛盾している。だが美貴春はそんな彼を、以前より好ましく思った。 「俺が何をしたいのか、もう知ってんだろ。お前はそれを止めない。違うか?」 「……違わないよ。僕は概念だ。早く、魂を次の世に運ばせておくれ」  美貴春はその言葉が真意でないことを悟っていたが、指摘することはなかった。追及を望まれていないことも知っていたからだ。  役人は美貴春の肩で静かに目を閉じる恵へ矛先を向ける。 「メグミ君、キミもそれでいいかい?」  恵が眠そうに半分だけまぶたを開く。やや背中を丸めて美貴春に身体を預けたまま、役人を視線で捉えた。 「僕はキミに伝えたね。キミの魂は、もう使い回せないだろう、と」  聞き流せない話題に食いついたのは、恵ではなく美貴春だ。眉を寄せ、怪訝な声で疑問符を口にする。 「ちょっと待てよ、それ、どういう……」 「長年使い回された魂はどうしても、綺麗に浄化がしきれないんだ。そういう魂の持ち主に訊くんだよ。消滅するか、この世界で暮らすか選んでいいよ、とね」  ここに来て知らされた新しい事実が、美貴春を動揺させる。  追い打ちをかけるのは、苦しそうに胸を押さえる役人だった。 「ともに扉の中へ溶けても、メグミ君が消滅せずに生まれ変われる確率は僅かしかない。その上、君たちが揃って同じ時代、同じ国に記憶を持って生まれ変われる可能性はないに等しいけれど……覚悟できているかい?」 「……」 「僕は……僕は、キミたちが幸せになればいいのに、と思ってる。だから、本当は……こんな無謀な賭けに、二人の未来を託してほしくはないんだ」  この世界に二人で居続けることは不可能だ。  記憶を取り戻した美貴春は、徐々に浄化されていく。動き始めた時間を止める術がないのなら、ともに扉をくぐり再び来世で出会いたかった。  元より叶う確率の低さは承知しているが、役人がここまで渋る様子を見ていると迷いが生じてしまう。 「恵……」  何が自分たちにとって最善か。浄化が進んできているのか、霞む頭を振って考える。  そんな美貴春の背に、冷えた恵の腕がまわる。抱き返してくれる弱々しい力を感じ、男の声に耳を傾けた。  すると恵は幸せな溜め息で美貴春の首元を湿らせて、いい夢でも見ているかのように微笑んだ。 「つれてって、あなたの、いくとこ、ぜんぶ」  ――くだらない迷いは払拭された。  美貴春は愛しい恋人の願いに突き動かされ、「ああ」と頷く。何かの拍子にはぐれてしまわないよう、震える手で、二人の手首をベルトで縛り上げた。 「置いてくかよ。どこにだって、連れて行く。お前が嫌だって言っても、絶対だ」  役人を振り返る美貴春の手は、始まりの扉にかかっている。 「心配してくれてありがとな。でも一緒にいないと駄目なんだよ、俺ら。どっちかでも欠けたら、世界がなくなっちまう」 「それはそれは……引き留めるのは野暮だね」  呆れ笑った役人の笑みを最後に、美貴春は躊躇いなく扉を開けた。  見慣れた何もない空間に喉を鳴らす。今感じているのが恐怖なのか期待なのか、正直どちらか判別できない。 「元気でね、美貴春」  役人の優しい声が二人を見送る。  美貴春は目を閉じ、恵をかき抱いたまま扉の向こうへ身を投げた。 (いくぞ、恵)  ともに生きた年月も、死して過ごした一週間も、二度と忘れ去りはしない。次に生まれ変わったとき探してやれるように――最期の瞬間まで、恵の顔を思い浮かべた。
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