後編

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後編

 次の駅で向かい側のドアが開くと、またたくさんの人が乗って来た。その中に眉間にしわを寄せ、肩をいからせている男性がいた。背が飛び抜けて高かったので、カヤの目にも自然と入ったのだ。白髪頭を短く刈りこみ、作業服を着ていて、初老といっていいくらいの歳だろう。  男性は人混みのなか、すばやく首を巡らせて車内をひとわたり見終わると、やにわに声をはりあげた。 「そこのガキども、立て!」  最初、カヤは何を言われたのか分からなかった。周囲がざわめくなか、カヤがぽかんと口を開けていると、隣に座ったピンクの髪の青年がめんどくさそうに顔を上げた。 「年寄りの席に、ずうずうしく座るな」  老人が目の前に来た。するどい言葉は自分と青年に向けられたのだと、カヤは初めて気づいた。  怒鳴られた青年は小さく舌打ちすると、スマホを上着のポケットに押し込んで立ちあがった。カヤはしかめっ面の青年を見あげて、おろおろした。 「おまえもだ、おまえもどけ!」  怒鳴り声にカヤの体がビリビリとしびれた。 「あなた、そんな声出さないで」  男性の妻の声だろうか。言動をいさめられても、男性はカヤをにらみつけたままだ。  カヤはうつむいつて、ふるえる足を床につけた。座席左側のポールをなんとか掴んだが、もう怖くて顔があげられない。車内は小さくざわめいた。  たたなきゃ。ここはダメだったんだ。座ってちゃ、ダメだったんだ。  カヤがポールにつかまり、体をずらすようにして座席から降りるやいなや、男性が連れの女性を座らせて自身もどかりと腰をおろした。  ピンク頭の青年が、人混みをかき分けて車両の反対側へ移動していくのが見えた。  カヤもそうしたかった。しかし体の小さなカヤが、混雑する車内を進めるわけもない。さっきまで座っていた座席の仕切りのすぐ横に移るしかなかった。  いきなり怒鳴られた怖さで、カヤの胸は激しく鼓動を打ち続けた。耳の奥で血がどくどくと流れる音が響く。  泣いちゃダメ、泣いたら術がとけちゃう。    カヤはバスケットを胸に抱きしめ、うつむいた。  カヤの周りにいる人たちは、小声でささやきあっている。ひどいよね、ないよね、と男性を非難する声がカヤにも届いたが、なんのなぐさめにもならない。  頭のところがゾワゾワする。かくした耳あらわれそうだ。  駅はあとふたつ、あとふたつ。そしたら、サヤおばさんが待っているから。カヤは口を強くむすんで涙をこらえた。 「あなた、ごめんなさいね」  頭の上から声がして、カヤはおもわず顔をあげた。  仕切りの向こうから、グレーのショートヘアーの女性がカヤのほうへ顔をむけて頭をさげた。  黒いサングラスをかけていているので、表情はよく分からなかったが、優しい声だった。 「わたし、目がよく見えなくて」  白い杖を持ち上げてカヤに見せた。 「年寄りのための席に座っているやつのほうが悪い」  隣の男性が腕組みをして、きっぱりと言い切った。 「そんなふうに言わないで」 「いいんだ、おまえは病人なんだし」  半分怒ったように言う男性の横で、女性が眉を寄せて作り笑顔をした。カヤは声をかけられたことで、よけいに体をちぢこませた。  カヤの回りは、重苦しい沈黙が続いた。ごとんごとんと電車の音が大きく聞こえた。  迎えた次の駅では、降りる人より乗る人が多かった。カヤの気まずさなど関係なく、さらに人が詰め込まれドアがしまった。 「さっきから、匂いがするんだけど……」  終点へ向けて列車が動いてほどなく、サングラスの女性が再び口を開いた。  カヤは飛び上がりそうになった。気づけば窓はぜんぶ閉められたらしく、天上から涼しい風が吹いてきている。電車が密封されてキツネの匂いを嗅ぎ付けられたんだ。  カヤの頬は冷たくなった。逃げることもできず、カヤはますますドアのほうへ体を押しつけた。  女性が鼻をくんくんと動かす仕種に、周りの乗客たちもつられたように鼻をひくつかせて首をかしげる。  カヤは、今にも飛び出そうな耳としっぽを押さえつけようと必死だ。 「いちご、かしら」  女性の言葉に、カヤはハッとした。いまさら、かごのいちごが甘い香りを放っていることに気づいた。  キツネの匂いじゃなかった。カヤは深呼吸して、小さく二度せきをした。  こんこん。  しっぽと耳がすっと引ける感触がした。安心したカヤは思いきって声をあげた。 「わ、わたしのいちごかも……!」  カヤの応えに女性は微笑んで小さく手をたたいた。 「あたりね。わたし、鼻はよくきくのよ」  女性はカヤに顔を向けて、サングラスを中指でくいっと押し上げた。カヤは、ほっと息をついた。そうすると、胸のドキドキもちぢこまった体も、元に戻るっていくように感じられた。 「これ、どうぞ。あらってあります」  カヤはカゴからいちごを一粒取って、女性の顔のまえにさしだした。 「わあ、いい香りね。ほら、あなたいちごですって」  女性はいちごを受け取ると、隣に座る夫へと渡した。仕切りのうえに突き出た男性の表情は、カヤからもよく見えた。どこか戸惑うようにして、いちごを摘まんでいる。 「食べてみて」  男性は乗客の視線が気になるのか、なかなか食べなかった。 「食べて」  再度の女性の声に促されていちごを口にした男性は、瞬間ぎゅっと目をとじ口をすぼめた。大きな肩がちぢまる。 「すっ……これ……」  女性は男性の様子が分かったのだろう。くすくすと笑っている。 「むかしのいちごみたいね。酸味が強くて甘すぎないの」 「きのう、お母さんとお兄ちゃんとつんできたんです。それでお母さんがジャムにして」  カヤはジャム瓶を取り上げて、高くあげた。 「まあ、すてきね。ジャムは誰かへの贈り物?」  カヤは首を横にふった。 「おつかいなの。サヤちゃん……おばさんのお店でうるの」  そうなの、と女性は何度もうなずいた。 「おみせ、お寺がたくさんあるとおりにあるの。なのはな屋」 「そのお店、知ってる。小穀町(ここくまち)のところにある雑貨屋さんでしょ?」  カヤの側にいた、ポニーテールの女子高生が会話に加わった。 「山小屋みたいなお店で、ハンドメイドの小物とか並べてある、かわいいとこ!」  女子高生の言葉が嬉しくて、カヤはこくこくとうなずいた。 「こんど、行ってみるね。ジャム、美味しそうだもん。ふっかふかのパンにたっぷりぬりたい」  そういうと、白い歯を見せて笑った。  車内にメロディーとアナウンスが流れた。終着駅へ間もなく到着しますと。  電車はスピードを緩めて何本ものレールをまたぐ連絡通路をくぐり、駅舎からいちばん遠い端のホームへとすべりこんで行った。  カヤもよく知っている駅だ。改札前にサヤおばさんがいるはずだ。  もうみんな停車したホームへと視線を向けている。  プシューと電車の扉が開くと、ホームは一気ににぎわい、階段まで人の帯ができあがった。 「じゃあね」  女子高生の二人がカヤに手をふって電車を降りた。  カヤはわれ先にと降車を急ぐ人たちに、小さいからだをもみくちゃにされた。  最後、車両に残ったのはカヤと老夫婦だった。  何とはなしに微妙な間があいたとき、運転室の小窓があいた。 「ひとりで乗ってこれたね」  電車の運転士さんが、カヤに笑いかけた。  そうだ、ひとりで町まで来られたのだ。急に嬉しさがこみ上げてきて、カヤは小さくこぶしを握ると、その場で足を踏み鳴らした。 「うるさい」  男性が顔をしかめてカヤを注意した。  カヤはあわてて動きを止め、しゃんと背中を伸ばした。 「ありがとうございます」  運転士さんへお礼を言うと、かごから出した切符を握りしめて階段まで一気に駆けた。  コンクリートの壁が湿った匂い、改札の横にある立ち食いそばの鰹出汁の匂い。もうすぐサヤおばさんに会える。カヤは急な階段を苦もなく、はずむようかけあがった。けれど中段あたりまで来て、最後におりた老夫婦が気になって振り返った。  ホームのベンチに奥さんが座っているのが見えた。白い杖にすがるようにしてつかまり、背中を丸めている。  思わずカヤはきびすを返して階段をおりた。 「だいじょうぶ?」  背中をさする男性へカヤはたずねたが、舌打ちをされた。 「さっさと行け。ガキに何ができるってんだ」  カヤは返答につまった。子どもにできることなんてない。ましてやカヤはキツネ。人間のことをよく知らないのだ。 「水かお茶が……」  女性が苦しげにつぶやくと、男性はホームにある自動販売機へ駆けていった。 「ごめんなさいね、うちのお父さん口が悪くて」  女性が少し顔をあげると、サングラスの隙間から、長いまつげと薄茶色の瞳が見えた。  女性は藤の花が描かれたワンピースを着ていた。靴も藤色のサンダル。白い杖とグレーのショートヘアが映える。 「久しぶりに電車に乗ってちょっと疲れただけだから、だいじょうぶ。少し休めば歩けるわ」  カヤはうなずいたけれど、なんだか胸の中がモヤモヤした。男性は数本のペットボトルを持って戻って来る。  カヤは自分にできることが一つくらいないだろうかと考えた。そういえば、さっき渡したいちごは、旦那さんへゆずっていた。 「これ、口がすっきりするから」  と、カヤはかごのいちごを取り出した。 「これ……」  香りに気づいたのか、女性がわずかに体を起こした。カヤはいちごを手わたした。 「いちご、ね」  女性はどこか戸惑うように、いちごをてのひらで転がした。 「おいしいよ?」  カヤの声に後押しされたのだろうか。奥さんは、いちごを口元へ持っていった。 「おい、やめっ……!」  背後で駆け寄る足音がして、カヤが振り向こうとしたとき、女性は意を決するように、いちごを口へほうり込んだ。  女性が肩をきゅっとすくめる。 「あっ!」  ぴょこん、と黄金色(きんいろ)の三角の耳が女性の髪から飛び出た。 「わああっ!」  ペットボトルを投げ捨てた男性が、奥さんのキツネの耳を両手でかくした。  額に玉の汗を浮かべ、顔を青くしている旦那さんとは対照的に、奥さんはじつに落ち着いたものだった。 「あらあら……」  そうつぶやくと、口へこぶしをあてて、小さく二回せきをした。 「こんこん」  ぽかんと口を開けたカヤの視界から、キツネの耳がすっと消えた。奥さんはいたずらっぽく、舌をちょっと出してみせた。 「あなた、もうだいじょうぶよ」  旦那さんは、足から力が抜けたのか、ベンチの背もたれにつかまり、へなへなとホームへしゃがみこんだ。 「野いちご食べたら元気が出たわ」  杖をついて、ゆっくりと女性が立ちあがった。ワンピースの藤の花が揺れて、藤棚の花房のように見えた。 「ありがとう、あなたのおかげで懐かしいふるさとを思い出したわ」  カヤの麦わら帽子に手を乗せて、奥さんはほほえんだ。 「こんど、お店にも行くわね。こんなにおいしい食べ物が買えるなら、勇気百倍よ」  カヤは何かが分かりかけて、うなずいた。 「わたしの病気だってきっとよくなるわ」  ね、あなたと奥さんが振り向いて声をかけると、旦那さんは眉をよせ唇を真一文字に結んでうつむいた。 「さあ、もうお行きなさい。誰かお迎えを待たせているんでしょう?」  言われてカヤは電車が到着してから、だいぶ時間が経っていることに気づいた。 「うん、ありがとう。バイバイ!」   カヤはあいさつもそこそこに、再び階段をかけあがっていった。あがりきってもう一度ホームを見下ろすと、二人は腕を組んで階段へ向かうところだった。  カヤが改札へ顔をむけると、駅員さんのさんの向こうにサヤおばさんを見つけた。 「サヤちゃん!」  カヤが名前を呼ぶと、サヤおばさんはほっとしたように指を組んでいた手をほどき、肩のあたりでふった。  サヤちゃん、サヤちゃん!  たくさんおはなし、したいことがあるんだよ。  カヤは、はずむように通路をかけていった。
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