前編

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前編

 ごとんごとん、ごとんごとん……。  電車に揺られながら、カヤはくちびるをへの字に曲げていた。さっきまで山の間を走っていた電車は、棚田を過ぎて今は平野へと入った。窓の向こうに広がる田んぼは、風にそよぐ稲が青く眩しい。  カヤは膝のうえにのせた籐のバスケットの持ち手をぎゅっと握っている。汗で持ち手が湿っている。  ――おにいちゃんの、ばか。なんでカゼなんてひくのよ。  カヤはしかめっつらで電車のシートのはじっこに座っていた。  山の駅から乗った一両きりの電車は乗客も少なく、カヤとは離れた座席の開けられた窓から入る風は六月の初夏の匂いを運んで来る。いきなり鳴った警笛に、カヤはびくりと体をふるわせて、慌てて麦わら帽子を片手で押さえた。どきどきする胸のうえに手を置いて、大きく息を吸って吐いた。  ――よかった、耳もシッポもでてない。おまじないしなくても、だいじょうぶ。  カヤはキツネに戻っていないことに、ほっとした。  ごとんごとん、ごとんごとん。  終着駅までの駅は十二、時間にして一時間と少し。ようやく三つの駅を過ぎた。のこり、ここのつ。次の駅までが、とても遠くのに感じられる。終点には永遠に着かないような気すらする。  土曜日のお昼にはまだ早い時間。おしゃべりする人もなく、バスケットの中のジャムの小瓶がカチャカチャ鳴る音がかすかに聞こえる。  ーーちっともへいきなんかじゃない。  出かける前は、このみちゃんの前で「ひとりでもだいじょうぶ」なんて強がって見せたくせに。  ひとりでおつかいなんて、ムリだったんだ。  カヤは今朝のことを思い出していた。朝起きてすぐに、町までのお使いしてとお母さんから頼まれたのだ。 「えー! きょうは、このみちゃんとあそぶやくそくしてるのに!」  このみちゃんは、カヤの家の一番近くに住む同い年のキツネの女の子だ。  カヤはお母さんのエプロンを、くわえてひっぱった。まだ小さな体だけれど、背中の毛は立派なキツネ色だ。ふさふさのしっぽをふりまわして抗議する。 「お兄ちゃんが行くはずだったけど、熱がでちゃって。悪いけど、このみちゃんには今度また遊ぼうってお話ししてきて」  お母さんは、人に姿を変えていた。昨夜作った瓶詰めジャムにラベルを貼っている。人のかっこうのほうが作業しやすい。それに急な来客があったりしても安心だ。ちゃぶ台で、ごはんを食べているお父さんも、同じく人の姿をしている。  カヤのお兄さんは、昨日から元気がなかった。一緒に野いちごを摘みにいったときもぼんやりしていたし、ふだんはおかわりする夕ごはんも残して、早くに休んでしまった。  だからカヤは寝るときにお祈りした。おにいちゃんが元気になりますように、おつかいをたのまれませんように。このみちゃんと遊べますように、と。  いささか自分勝手なお願いは、かなわなかったようだ。 「お母さんも、いっしょにきて!」 「無理よ。お父さんが山に木を伐りに行ったら、家が留守になっちゃうでしょう。お兄ちゃんを一人だけにできないわ」  お母さんは、出来上がった瓶入りの野いちごのジャムを、バスケットに入れた。 「町の駅で、サヤおばさんが待っているから、これを届けて。お店のジャムが品切れしちゃって、土日用にどうしても欲しいんだって」  サヤおばさんは、お母さんの妹だ。町に住んで、小さな雑貨屋さんをしている。雑貨屋さんに並べてあるのは、カヤのお父さんが作った木のスプーンやお母さんとカヤたちが摘んだ野いちごでこさえたジャム、山男のガラス器、川に住む人魚たちが育てた真珠のピアス、雪女の特製アイスキャンディー。日用品からお菓子まで、山の恵みがたくさん売られている。  サヤおばさんは、麦わら色のふわふわの長い髪をしていて真ん丸の眼鏡をかけている。トレードマークのエプロンドレスを服を着て、人に混じって暮らしている。にこにこしていて、いい匂いがして、カヤは大好きだ。おばさんなんて言うのが似合わないから、カヤはサヤちゃんと呼んでいる。 「届けてくれたら、ごちそうするってよ」  お母さんが、ウインクして見せた。 「あした、お父さんがお迎えに行くから、サヤおばさんのところに泊まってきな」  お父さんが、お茶を飲みながら言った。 「うん……」  お泊まりできるのは、嬉しい。サヤおばさんは、きっと山では口にできないお菓子や料理を準備してくれるだろうし、お店が終わったら、どこか遊びに連れて行ってくれるかもしれない。  町は嫌いじゃない。でもカヤは今まで一人で電車に乗ったことがないのだ。 「このみちゃんに、おはなししてきなさい」 「はあい」  お母さんに言われて、カヤはしぶしぶと家を出た。  しばらくしてカヤは走って戻ってきた。 「お母さん、お母さん! はやく人に化けさせて。いそがなきゃ、でんしゃにおくれちゃうよ!」  着くなり、カヤはお母さんを急かせた。さっきまでの浮かない顔はどこへやらだ。 「そんなに慌てないの。どうしたの? きゅうに行く気満々ね」 「このみちゃんに、すごいねっていわれた。ひとりでまちに行くんだーってはなしたら」  カヤは鼻高々だ。このみちゃんも、このみちゃんのお兄ちゃんのコン吉も、まだ一人で町まで行ったことがなかったのだ。  電車の油の匂いや人の匂いは、ほんとは少し苦手だ。でも電車なんて乗っちゃえばすぐに町へ着く、いつもみんなで出かけるときみたいに。だから、大丈夫とカヤは思った。帰ってきたら、ひとり旅の話を聞かせるんだ。きっと、すごいってふたりとも目を丸くして聞いくれるだろう。 「おかあさん、きょうはあじさいをつかったんだね。あたしはなんの花にしようかな」  お母さんのスカートは、アジサイの花びらの形の模様のスカートをはいている。 「あやめがいいんじゃない? 一茎あれば、たりるから」  カヤは家から飛び出して、近くの水辺から濃い紫色の大きなあやめを一茎口にくわえると、また走って戻った。 「はい!」  カヤはあやめをお母さんに渡した。  お母さんは受け取ったあやめの花の匂いをかぎ、茎の長さを後ろ足で立ったカヤと比べた。 「お父さん、手伝ってくださいな」 「よしきた!」  お父さんは得意げな顔をして、立ち上がった。準備体操するみたいに肩を回して。  カヤはわくわくした。人に化けるときにお父さんが、くるりと空中で一回転させてくれるのが大好きなのだ。 「じゃあ、カヤはお花をしっかり持っていてね」  カヤは胸の前で花をささげ持った。 「山神さま、山神さま。お願いいたします、子ギツネのカヤを人の姿に」  お母さんが両手を合わせて唱えると、はいっ、というかけ声を合図にカヤは後足で床をけった。  くるん!  お父さんがカヤの後ろ回りを補助する。高く飛び上がったカヤは、きれいに一回転した。 「じゃん」  カヤは体操選手みたいに両手をあげて着地を決めた。  あやめ色のチェックのワンピースを着た、十歳くらいの女の子になったカヤがあらわれた。 「かわいいワンピース!」  袖はパフスリーブの半袖、スカートは膝より下まであって少し長め、胸の下から切り替わっていて、細かいギャザーがよっている。  カヤが赤い靴をはいた片足でターンすると、スカートがふわりとふくらんだ。 「これなら、もしも尻尾が出ても隠せるからね。それから耳はこれで」  と、お母さんは長い三つ編みにしたカヤの頭に麦らわ帽子をのせた。 「よし、どこから見ても、かわいい人間の女の子だ」  お父さんは腕組みしてうなずいた。  言われてカヤは、はにかんだ。 「びっくりしないようにね」  お母さんはカヤにバスケットを渡した。手に持つと、ふわんと甘ずっぱい香りがした。思わずバスケットにかけてあるハンカチをよけてみると、ルビーみたいにぴかぴか光るいちごが、小さな器に入って赤い水玉もようの蓋の瓶と並んでいた。 「あ、食べちゃだめよ。カヤにはすっぱすぎて、いつも耳がぴょんて出ちゃうじゃない。これはサヤおばさんのぶん。キツネの山でしか採れない、特別ないちごだからね。サヤの大好物なの。このまま届けてあげて」  キツネの山のいちごは、真っ赤で小粒ですっぱくて、ほんのりとした甘さが舌先に残る。そして何より香りがいい。ジャムに向いている苺だ。  カヤは、つばをゴクンと飲んで我慢した。もし術がとけたら、また始めからやり直しだ。そんなことをしていたら電車に遅れる。それでなくても、駅までは遠いのだ。 「サヤちゃん、そんなにいちごが好きなら、山に戻ってきて結婚すればいいのにな」 「あら、サヤがいるから町のお店で品物を売ってもらえるのよ。そのおかげで、森の住処を失くしても村はずれで暮らせるんだし。いちごが好きなのと、お店をやめて戻ってくるのは別の話だわ」  お母さんのきっぱりした反論にお父さんはタジタジだ。 「ま、人間の婿さんをつかまえたいんだろ、昔話みたいに」 「それも別の話!」  お母さんは、お父さんの背中を押して玄関へ向かわせた。 「行ってらっしゃい、カヤ。もしも術がとけてしまったら?」 「しんこきゅうして、せきをふたつ、こんこん!」  カヤはお父さんと手をつないで、答えた。お母さんがうなずく。 「忘れちゃダメよ」  カヤたちが住んでいる家は、村のはずれだ。前はもっと山奥に住んでいたとお父さんから聞いたことがある。カヤはお父さんと駅までの道のりを歩いた。 「にんげんのおよめさんになったキツネなんているの?」  カヤはお父さんとお母さんのさっきのやり取りが気になって聞いてみた。 「むかーし、むかしにはあったみたいだけどなあ。古い言い伝えだよ」  ふーん、とカヤは返事をした。サヤおばさんが人間と結婚することはないようだ。  小さな集落をぬけて、緑の屋根の駅舎についた。  切符を買って、電車に乗る前にお父さんが、電車の運転士さんにカヤのことをお願いしていた。終点まで乗るので、と。  線路はカヤの乗る駅で終わっている。終着駅は始発駅だ。 「カヤ、終点までは駅は十二だ。今日は土曜日だから、子ども一人で乗っていても変に思われないだろ。町の駅で、サヤおばさんが待っていてくれるから大丈夫だ」  ホームまで見送ってくれたお父さんと別れる時までは元気いっぱいだったはずなのに。  カヤは二つある扉の先頭に近い方、すぐ左手の四人がけの座席におちついた。カヤひとりを乗せて出発した電車が、一つ目の駅に着いたとき、乗ってきたのはお父さんよりは年上に見えるおじさんだった。半袖のポロシャツのお腹のあたりがパンパンだ。  車内のカヤを見て、細い目を少し大きくした。それからカヤを無遠慮に眺め回すと、反対側の長い座席の端に座った。  ーーもしかして、こどもがひとりで電車に乗ってるの、ヘンだって思われた?   カヤは体が固くなっていった。肩にやたらと力が入る。  二人になった乗客を乗せて、電車は二つ目の駅に着いた。プラットホームには、おばさんが二人立っていた。  開いた扉から車内に入ってきたおばさんは、やはり座席のはしっこのカヤを見ると、あら……と小さく声をあげた。それからぎこちなく笑うカヤを、しげしげと見てからカヤと同じ側の真ん中へ二人で腰かけた。  ーーどこかヘンなとこあるのかな?  カヤは体のあちこちを、あわててさわった。耳も尻尾も出ていない。ほっぺたもヒゲは飛び出ていない。すべすべだ。それでも気になりすぎて、カヤは耳鳴りがするように感じた。  三つ目の駅からは三人のお客さん。電車は少しずつ町に近づいているようだ。田んぼの他に数軒の集落も見えるようになってきた。  だんまりした車内に、カヤは押し潰されそうだった。  もしかして、小さすぎる子どもは一人で電車に乗ったらダメなんじゃない? でもお兄ちゃんは時々町までお使いに出かけている。それに、お父さんが運転士さんにカヤのことを話していた。だから、ダメなんてことはないはず。  小さな頭で考えすぎて、カヤはクラクラしてきた。人の匂いも気になって窓を開けたくなったが、開けかたがわからなかった。  匂い……あっ、とカヤは声を出しそうになった。  もしかして、あたしキツネくさい? それでみんな近くにすわらないの?  カヤはほっぺたや額がひんやりしてきた。キツネとバレたらどうしよう。次の駅で降りちゃう? でもそんなことしたら、もうおうちには帰れなくなる。お父さんお母さん、お兄ちゃんに会えなくなる。  そう考えただけで、カヤは胸のあたりが、きゅうっと苦しくなって泣きそうになった。  車内にアナウンスが響いて、次の駅の名前を知らせた。  徐々に減速して電車が停まると、今までより、ずっとたくさんの人が乗ってきた。  あれ?  大きな鞄を肩にかけたカヤくらいの女の子がいた。一人のようだ。女の子は髪を頭の後ろにひとつにまとめて、おだんごにしている。  ――誰も女の子をじろじろ見たりしない。一人で乗ってもいいんだ。  カヤは思わずため息をついた。女の子は席に座らず立ったままで扉のそばの手すりにもたれると、手慣れたようすで耳にイヤフォンを入れた。  女の子も周りを気にしているふうではない。カヤはなんだか安心した。そうこうしているうちに、次の駅からは降りる人もいたし、乗る人が多くなっていった。カヤのところの座席も四人分きっちり埋まった。  カヤは車内のひとたちの服装や持ち物が珍しくて、思わずキョロキョロと見渡した。カヤのすぐそばには、半袖のセーラー服を着た女子学生が二人、吊革につかまっている。今日は土曜日だけれど、学校に行くのだろうか。隣に座るピンク色の長い髪のお兄さんは、ずっとガムをかんでいる。ヒョウ柄の服を着たおばさんの髪は紫色だ。子どもをだっこしたお母さん、大きな旅行鞄を持った男性もいる。  線路沿いはいよいよ賑やかになり、高い建物も見えて来た。あと三つで終点だ。  あと少し、あと少しとカヤはソワソワしていた。  だから、次の駅で起こることに無防備でいたのだ。
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