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雪とオパール
オパールにふたつと同じ石はない。
"母さん"は言っていたっけ。
隙をついて、そのオパールを飲み込んでしまいたい。俺がいつもそんなことを考えていたなんて、知らなかったよな……。"母さん……"
―――
「幸坂、幸坂!」
廊下で、クラス担任に呼び止められた。
「明日の全校スキー授業、早見も行くことになったんだが……」
早見とは、幸坂のクラスに数日前に転校してきた生徒だ。
「気をつけてくれ……というか、できるだけ目を離さないでくれ。早見がどうしてうちの小学校に来たか、幸坂には伝えておこう。早見はちょっと手癖が悪くてな……」
「先生。そんなこと話しても大丈夫ですか? 俺が学級委員だからって……」
「ああ! 幸坂は口が固いだろ?」
担任は職員室に向かった。
「……何も言わない人間が、何も考えていないと思うんだ、先生は……」
幸坂のつぶやきは放課後の廊下に溶けていく。誰も聞いていなかった。
「美久。明日の準備、できたか」
「うん! 汗取り用の穴の空いた手拭い、オッケー! スキー板にワックスを塗った! あとは……これ!」
「美久! おまえ、母さんのオパールをどうするんだ!」
「貴重品は肌身離さず持っていくようにって、先生が言ってたもん」
美久はオパールのペンダントを首から下げた。きっと、箪笥の底にしまってあったのを取り出したのだろう。
幸坂はオパールから目を逸らした。
「お兄ちゃん。明日もお父さん遅いんだよ。お母さんのオパールを盗みに泥棒が来たらどうするの!」
「……泥棒なんて、この世にいると思うのか? 美久は」
「うん! いやな泥棒は退治しなきゃだよね!」
「……美久。もう寝ようか」
「おやすみ。スキー授業って、どんなのかなあ。楽しみー!」
美久はパジャマにオパールのペンダントをつけたまま、眠った。『外しなさい』と言えば、きっと駄々をこねるだろうと幸坂は思った。
『哲也。このペンダント、綺麗でしょ? オパールには、ふたつと同じ輝きの石がないの』
"母"は生前、いつも言っていた。
美久の胸元には、大人の親指の爪くらいの大きさのオパールが輝いている。
幸坂は、美久の首にふれようとした。
――いま、いま……。美久の首から、ペンダントを……。
「……は! ……ああ、ああ……」
幸坂は後ずさりして、潜るように布団をかぶった。
声が聞こえる。……早見だ。
『語りかけてるのに、無視すんなよ。哲也』
「うるさい!」
『"幸坂哲也"なんて、いい名前をもらったなあ……しかも、あんな大物を目にしながらおとなしくしていられるなんて、生まれ変わったみたいだな……おまえ……』
――わかってる、わかってる。
偽りながら幸坂家で、十年間生きてきたことを。
――本当の自分は……。
―――
「ぎゃああああっ!」
「宮本先生、どうしましたか!?」
「うわ、すごい血だ。しっかりしてください。宮本先生! 誰か、救急車!」
「早見くんが、五年生の早見くんが……私の耳を噛んで、引きちぎったの……!」
宮本の両耳はちぎられている。いつも小粒のダイヤのピアスをつけていた宮本の耳が。
全校スキー授業の休憩時間に、事件は起こった。
ロッジの床に血溜まりができている。早見の姿はない。
「俺、探してきます!」
「幸坂、待て!」
「あいつが、あいつがなにをするか、俺にはわかるから」
幸坂はスキー板もつけずにゲレンデを登った。教師たちは引き離されていく。後ろの方から、教師たちの声が聞こえる。
「やっぱり、早見は人間じゃない……人の耳を噛みちぎるなんて、あいつは……おい、猟友会に連絡しろ!」
「はい!」
「早見……"イシグイ"の生き残りだったか……」
「離して、離してー!」
「美久!」
早見が美久の腕をつかんでいる。若い男性教師がストックで早見を叩くが、一向に離そうとしない。
滑り降りるのに遅れた一年生のグループに美久はいた。
突然、早見が美久と教師を次々と突き飛ばした。
銃弾の音――弾はすべて、早見に命中した。
振り返ると、オレンジ色のベストを着た集団、猟友会がいた。
「早見、早見……!」
スキーウェアが血まみれになるのも構わず、幸坂は早見を抱きしめた。
「……哲也。人間として生きた十年は……楽しかったか?」
「幸せだったよ……兄ちゃん……」
……イシグイ。宝石を喰らい生きる化け物。早見と幸坂は、イシグイの兄弟……もうこの世界にふたりしかいない化け物だ。
ふたりしかいないから、互いの名前は、かつてはなかった。幸坂が迷子になって、人間に拾われるまでは。早見は成長するにつれ、人々が持つ宝石の輝きに抗えなかった。
「哲也……おまえは、兄ちゃんとちがって賢いから、ひとになれる……」
「兄ちゃん、兄ちゃん! 兄ちゃんだって、なれるよ。美久と先生が撃たれないように突き飛ばしたんだろ!? 兄ちゃんも人間だよ!」
「ごめん……無理だ。もう、ダイヤを飲んじゃったよ。我慢ができなかった……哲也、生きるんだ……」
徐々に冷たくなる早見……兄を、幸坂はずっと抱いていた。
―――
あの日から、降り積もる雪を幾度となく眺めた。
"父"も、美久も、もうこの世にはいない。ずっと若い男の姿のままで老いることのない幸坂を、住民は不審に思っているだろう。
夜、早見……兄が命を落とした山に登った。
イシグイとはいえ、幼い子供が撃たれて亡くなったスキー場には誰も近づかなかった。
「踏み固められてないからかな……登るの、きついな。それとも、俺の身体も本当は年老いているのかな……ははは、まさかな……」
寂れたリフトの柱の傍に立った。錆びつき、折れ曲がった柱には、兄の血痕が点々と黒く残っていた。
幸坂は、雪原に身体を投げ出した。
服を通して、身体に冷たい雪が染み込んでいく。今日は普段と変わらない服装で来た。
「兄ちゃん……帰ってきたよ」
胸元から、オパールのペンダントを取り出した。
月に照らされたオパールは、いくつもの星を閉じ込めたようにきらめいてる。
「兄ちゃん。俺、このオパールをずっと飲まなかった。我慢できたよ、この日まで」
ペンダントなら身元がわかる品になるかもしれない……雪が溶けて、幸坂の亡骸が見つかったときに。
これで、幸坂哲也としての生を終えられる。兄との約束を果たせる。
「……兄ちゃん、兄ちゃん、褒めて、褒めて……俺、生きたよ。生き切ったよ……兄ちゃん。俺、ひととして生きて、本当に幸せだった。兄ちゃんが知らない楽しいことをたくさん見つけたよ。今度はさ、ふたりで父さんと母さんの子供になって、美久が妹で……本物の家族になろう、兄ちゃん……」
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