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「じゃあ、行ってきまーす!」
「はい、行ってらっしゃい」
完全防備。マフラーやら手袋やらをしっかり着込んだ娘は、笑顔で玄関から出て行った。私もそれに笑って手を振り返し、そして娘を見送った後玄関の鍵をかける。
この後、やらなければいけないことなどわかっていた。娘がいない間にまず洗濯機を回して、そのあいだに家中に掃除機をかけてしまわなければ。あと、棚の上の埃もかなり酷いことになっているはずである。それから、娘はどうせ昼ごはんは明日香の家でご馳走になってくるのだろうが、夕御飯は確実に家で食べるのだ。おでんを作るなら、今から煮込み始めた方がずっといいだろう。ここのところしまいっぱなしになっていた鍋、あれを棚のどこかからか引っ張り出してこなければなるまい。
「……なんてね」
はあ、と大きくため息をついた。予定はある。けれど私は――それらの家事に、着手する気は全くなかった。何故なら、この後どうなるかわかっているのである。私は家事に取り掛かる前に一息入れようとお茶を飲んで、そのままうたた寝をしてしまうのだ。そして、気づいたらお昼すぎになっているのである。今挙げた家事を、一つもこなすことができないままに。
そう、わかっているのだ。――目覚める筈のその時間に、私がもう目を開くことがないということくらいは。
――わかってるの。馬鹿なことをしてるって。それでも、私は……私は、もう。
その“未来”の通りに、私はティーバックで緑茶を入れる。そして、湯呑を持ってテーブルへ。一口飲んでそのままテーブルに突っ伏して、眼を閉じるのだ。
そう、これが合図だと、知っているから。これで私の、私が望んだ“半日”が終わって“切り替わる”ことを理解しているから。
――ごめんなさい、美来。
この世界は、虚構。バーチャルで作られた、偽物の家だ。
現実で美来はこの日、雪遊びに行ったまま生きて家に帰ることはなかった。家の前で彼女がトラックに撥ねられたことを知ったのは、うたた寝をしていた私が鳴り響いた電話でたたき起こされた後になってからのことである。
だから、ここから先の世界は、要らない。
彼女が雪遊びをするのを引き止められないのなら。そこまでで、世界など終わってしまえばいいのだ。そうすれば、永遠に自分の世界で彼女は死ぬことはない。最後の、彼女の死を見ない最後の“半日”だけを繰り返し続ければ。自分はずっと、彼女と最後のおしゃべりをして、朝食を食べるだけでいいのである。
例え。この世界に閉じこもり続ける結果、現実の私がどうなってしまうのだとしても。
――ごめんね、美来。弱いママで、ごめんね。
ああ、そしてまた。
今日という日が――終わる。
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