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【2】
2010年、平成でいうところの二十二年、現在。
俺は意外な人物を見かけて足を止めた。
人気のない住宅街を、老人が一人、よたよたと歩いている。薄灰色の、オーバーサイズの着流しに身を包んだ老人だった。
周囲を見ても介添人らしき者の姿は見当たらず、当人も杖を突いてはいない。だが傍目に見ていると、こちらが心配になるほどその足歩取りはおぼつかなかった。俺とその老人までの距離は三十メートルほど離れている。別に隠れるような真似をしなくても、前を行く老人が俺の存在に気付くはずはなかった。
「こんな所で、一体なにを」
俺はそう独り言ち、気配を殺してその老人の背中を見つめた。古くから知った人間である。しかしどういった関係かと聞かれると、返事に困る。
俺とその老人の年齢は五十歳以上離れているはずだし、親兄弟でも、親戚でも、もちろん友人でもない。だが、決して他人ではない。俺はこの老人に、命を救われたのだから。
いや、命を与えられた、と言った方が正しいだろうか。だが、
「なんて姿だよ」
老人の着流しがオーバーサイズに見えたのは、左肩がだらしなくずり下がり、真っすぐに立っていられない傾いた立ち姿のためだと気づいた。首でも痛めているのか、頭が左に倒れている。バランスを取ろうとしているらしく、右手が脇腹の高さに持ち上がってゆらゆらと揺れていた。雪駄を履いた足を前へ踏み出すたびに左膝がガクリと砕け、庇うように素早く前へ出す右足はつま先から着地している。自然、まっすぐ歩く事叶わず、やや左前に進むはめになる。なんとも、危なっかしい歩行姿だった。寝起きでそのまま外へ出たのか、老人の真白い髪はいたる所が不揃いに跳ねていた。
「……うお、まじか」
俺は自分が泣いていることに気がつき、驚いて右手で乱暴に頬を擦った。
俺はしばらくの間老人の背中を見つめていた。次の曲がり角までたかだか五十メートル程の道をいつまでも歩き続けるその老人の後ろ姿に、いつの間にか、俺は自然と頭を垂れていた。
顔を上げた俺は右手の指を全部丸めて筒状にし、口元に当てて、言った。
「何にも返せないけど、こんくらいはさせて下さい」
筒状の手の中に吐き出した霊気を溜めこむと、「プッ」、勢いよく老人の背中目掛けて吹き飛ばした。生命力を込めた霊力の吹き矢だと思ってもらえればいい。だが、俺の放ったその吹き矢が老人の背中に到達する瞬間、
「たわけッ!」
老人がとてつもない速さで振り返り、俺の吹き矢を手で払いのけたのだ。
俺はあんぐりと口を開けたまま、「へ?」と言った。
「ああ? なんじゃあ、坂東か」
「お、おあ、えええ?」
「貴様、ヘタな事しでかすとブチ殺してしまうぞ」
ボサボサの髪が白い為に背後からでは分からなかったが、振り返った老人は、目鼻の大部分を白い包帯で覆っていた。一見、目の病を患う大病人のようだ。しかし俺に言い放った言葉といい、語気といい、自分が先程まで見ていた死にかけの老人とは程遠い覇気が、布切れを通して漏れ伝わってきた。
「だ、騙したんすか?」
「ああ?」
まるでヤクザみたいな受け答えだ。俺はよく人から怖がられるが、この老人はさらにその上を行く。俺は途端に馬鹿らしくなって、その老人に向かって駆け寄ろうとした。所がだ。
「来るな」
老人はそう言い、俺に右手を差し向けた。……何かが、聞こえるな。
――― はあああああおおおええええええ
奇怪な声をあげながら、俺と老人の丁度中間地点を、とある家の壁からすり抜けてきた女が横切った。俺は冷静にその事象を観察しながら、自分の額を右拳でトントンと叩いた。すると老人が鋭い口調で、
「待て」
と俺の動きを制した。
――― はああああああああああええええ
――― ひいいいいいいいいいい
「なんだァこいつァ」
地縛霊だろうか。
生きている人間ではありえない程痩身の女だ。女はモヤモヤとした黒い塊のような髪の毛を掻きむしりながら、ヒーヒーと震えた泣き声を上げながら反対側の路地へと移動して行く。
人気がないとはいえ、真昼間の住宅街である。こんな時間帯にくっきりとした姿を見せる霊体ってのは、そこそこ強い力を持った厄介者の場合が多い。だが俺と老人の存在に気が付かないのか、そいつは恨めしそうな声を上げ続けるだけで、やがて頭を抱えたまま反対側の家の壁へと消えて行った。
――― ただ単に霊道を通過しただけ……か?
身構えながら首を捻る俺に、
「変わらんなあ」
と老人が言った。俺は脱力して、答える。
「なんすか、それ」
「貴様はいつも簡単に全てを消し去ろうとする」
「っは。何言ってんすか。街中をうろついてる地縛霊一匹消し飛ばすなんざ、あんただって散々やってきたことでしょうよ。それにコレは、あんたから貰った力でもあるんだ」
「……」
「違いますか? 二神さん」
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