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【1】
2008年だった。
平成でいうところの二十年、つまりは今から二年前の話だ。
その年の夏、俺は自分の目と耳を疑う光景に出くわした。
アスファルトが溶けて気化するような猛暑日、町の小さな電気屋が通行人に向けて映していたテレビを前に立ち止まった俺は、視線を釘付けにされてその場から一歩も動けなくなってしまった。
世情に疎い俺ですら聞いたことのある大手レコード会社から鳴り物入りでメジャーデビューを果たしたという、新人バンド。ジャンルがなんなのか俺にはよく分からないが、名前を『ナイトガーデナー』というそうだ。俺は音楽というものにまるで興味がなかったが、その音楽番組から流れて来る憂鬱なメロディには不思議と心を掴まれた。
だが演奏が終わり、番組司会者とともにトークを繰り広げる、ある一人のメンバーの顔と名前が画面一杯に大写しにされた時、俺は思わずこうつぶやいていた。
「やっぱり死んでねえじゃねえかよ」
年の頃は二十歳前後。その新人バンドのボーカルは、女だった。
その女は涼やかな笑顔で自らを、
「はじめまして、黒井七永です」
そう名乗ったのだ。
茫然と立ち尽くし、電気屋から出て来た従業員が「なにかお探しですか」と迷惑そうな顔で尋ねて来ても、全く反応する気になれなかった。
突然、懐の携帯電話がけたたましい着信音で震え始めた。
「お客さん、電話鳴ってますよ! 煩いから早く出てよ! 他のお客さんの邪魔になるからさあ、あんまり長い事立ち止まられると困るんだよ!」
テレビを見つめたまま電話を耳にあてると、聞こえてきたのは低い女の声だった。
――― 今どこだ?
相手が誰かを確認せずに通話ボタンを押した俺は一瞬で我に返ったが、それでも視線はテレビ画面に釘付けにされたままだった。
「姉さん、今、テレビ見れますか」
俺の問いに、電話の相手は唸り声のような溜め息を吐き出し、
「どう思う?」
と聞いてきた。どうやら電話の相手も、俺と同じテレビ番組を見ているらしかった。
「どう思うもなにも」
「本物だと思うか?」
そう聞かれ、俺は答えられなかった。
猛暑に脳みそやられて見ちまった、これは幻覚なんだと思いたい。しかし自分の見ているものが現実だとして、それはそれで意味が分からないのだ。もしも、小さなテレビ画面に映る女が本当にあの黒井七永なのだとしても、それが俺たちの知っている人間だとは限らない。他人の空似という可能性だってあるし、そもそもいっぱしの芸能人様なら芸名という線だって濃厚だ。
「似てる……よな」
電話の相手が発する声は、少し、怯えていた。
気持ちは分かる、俺だってそうだ。
本物であれ、偽物であれ、俺はもう二度とあいつの顔を見たくなかったのだ。
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