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「え?」
笑香が僕の顔を見上げる。
僕は静かに言葉をつなげた。
「君がおじさんに言っただろ。ずっと仕事で、全然家にいなかったくせにって。……多分おじさんは、帰りたくても帰れなかったんじゃないのかな。君達家族への罪悪感とか、自分自身への不安とかで──また僕の母親にしたようなことを、自分がしてしまうんじゃないかって。それで家に居場所がなくて、帰って来られなかったんだ。もちろん、真剣に自分の仕事に向き合っていたのもあると思うけど。……帰りたくなかったわけじゃない。きっと家に帰れなかったんだと思うよ」
笑香が大きく目を見張る。笑香の表情を見つめながら、僕はどこか憂いをおびた思いを抱えてつぶやいた。
「それは、僕も同じだったから」
帰りたくても帰れない、自分の居場所がなかった家。……そして、多分僕の父親も。
僕とマンションで同居を始め、思った以上に早く帰宅する父親の照れた顔を思い返す。僕が無言で食事を出すと心底驚いた声を上げた。
『お前が作ったのか? 全部?』
そして相好を崩した後、出した料理を全部平らげた。
僕はその時、少しわかった。僕の父親も僕と同じく、みんなそれぞれに色々な理由があったのだ。
「──だからと言って、全部許されるわけじゃないけどな」
僕が口の中でつぶやくと、笑香の瞳が僕を見つめた。小さく首を横に振って僕は再び口を開いた。これは、笑香にはまだ言っていなかったはずだ。
「それから、もう一つ。多分おじさんは僕の母親と会っていた時も、お酒を飲んでいたんだと思う。君達家族を大事に思っていなかったわけじゃないんだろう。ただほんの少しだけ心が弱くなった時、そばにお酒があったんだ。そして、ちょうど隣の家に僕のかわいそうな母親がいた。……多分そういうことだと思う」
それはいつだったか。僕が偶然のぞき見てしまった、僕の母親が笑香のおじさんを家に招き入れた時の様子を思い出す。あの時僕が見た母の表情はまるで少女のようだった。
きっと、僕も笑香といる時は自分の母親と同じように、年相応の笑顔を浮かべて笑香を見ているに違いない。
僕はいつかの悪夢の中で笑香を拉致したことを思った。狡猾な僕の演技に揺らいだあの時の笑香のまなざしを、笑香のおじさんに重ねてしまう。──おじさんもあの時の笑香と同じく、僕の母親の罠にはまってついほだされてしまったのだろうか。
笑香はわずかにうなずいた。そして、僕の胸へと顔をよせる。
笑香はそっと指をのばし、僕の制服のすそをつかんだ。
「史郎君の部屋に行きたい」
僕をうながす小さな声音。
僕はごくりと息をのんだ。
「本当にいいのか」
喉が引きつり、声がかすれた。
「まだ、包帯が取れないんだろ? ちゃんと全部治ってからでも……」
笑香は僕の顔を見て笑った。まるで花が開くような微笑み。
「だってそうしたら、史郎君の部屋がなくなっちゃうじゃない」
僕達二家族の家は、書類上の手続きが済み次第、取り壊されることに決まっていた。
僕は自分の腕を上げた。そして、笑香の背中に手を回す。
「──おいで」
笑香は黙ってついて来た。
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