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あくまでも口調は静かだが、有無を言わせぬ僕の声音に笑香はその口をつぐんだ。
僕は小さく嘆息すると周囲の様子をうかがった。比較的近くのテーブルにいる女子高生らしい二人組が、興味津々といった表情で僕達をじっと見つめている。
「出ようか」
僕が伝えると、笑香は小さくうなずいた。
*
僕達は並んでカサをさし、住宅街を歩いていた。降っていた雨は止むどころか朝より激しさを増している。
笑香は無言で僕について来た。前は僕と一緒にいると会話が絶えなかったのに、僕が例の告白をしてからめっきり無口になってしまった。
くそ。
僕はいらだちをかくせなかった。笑香の周囲にいつのまにか忍びよっていた危険。気づかなかった自分が情けない。
道の前からワゴン車が来てスピードを落とさず脇を通る。僕はとっさに前へ出た。自分の腕を大きく広げ、立ちすくむ笑香を背でかばう。
「──きゃっ」
一瞬遅れて、笑香が高い悲鳴をあげた。カサでふせぐような余裕もないまま、僕は車が上げた水しぶきで頭からびしょぬれになっていた。
僕は小さくため息をついた。
「史郎君……」
つぶやいた笑香を振り返り、さしてぬれていないことを確認する。車は止まる気配も見せずそのまま走り去ってしまった。
「しょうがないな」
僕は持っていたカサをたたんだ。差していてももう意味がない。
ひょい、と僕の頭の上に笑香のカサが広がった。僕は背後を一瞥するとすぐに前を向いて歩き出した。カサがゆらゆらとゆれながらついて来る。
「無駄だ。いい」
僕がにべもなくはねつけると、赤いカサはその場で止まった。僕は黙って足を進めた。
一歩、二歩。カサはついて来ない。
「……何でなの」
低い声が流れた。
「それなら、なんで優しくするの」
背後から響いたその声は、混乱と憤りをはらんでいた。
「私を笑って、気まぐれに優しくして……。私が好きなんてうそでしょう。はじめからそう言えばいいのに」
僕は振り返って笑香を見つめた。赤いカサの影にかくれた顔は、高ぶる感情を抑えきれずに震えているようだった。
「私が嫌いならほっといて。あなたは一体何がしたいの? 私にどうして欲しいのよ?」
生ぬるい雨が、額から鼻筋を伝う。
僕が、君を好きじゃないって?
ぬれてくせの出た前髪の、邪魔なしずくを振り払う。
「僕がどうして欲しいって……?」
一歩、二歩。進んだ道を元にもどる。
僕は笑香のカサを持つ手を、上から強引に握りしめた。笑香が僕の顔を見上げる。
僕はぐいっと手を引いた。
次の瞬間、思わずのけぞる笑香の唇に、僕はぶつけるようにして自分の唇を押しつけた。笑香が大きく瞳を見開く。
赤いカサが宙に舞った。大量の雨のしずくとともに、僕は頬に衝撃をくらった。
「最っ低‼」
ヒステリックな笑香の声。ばしゃばしゃと道をかけて行く、小さな水音がそれに重なる。視界が点滅するような感覚に僕は思わず目を閉じた。唇だけで低くつぶやく。
「仕方ないじゃないか」
僕はこうするしかないんだから。
地面に落ちたカサの雨音が静かな余韻を残していた。
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