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 湯浅さんが業者に依頼して清掃をしてくれたため、僕がいままで住んでいた家にはよそよそしい洗浄剤の匂いがした。造りはすべてもとのままだが、必要なものはここにはなかった。  僕はリビングのドアを開けた。明かりをつけようとした刹那、あの時、笑香が僕からさえぎった蛍光灯の光を思い出し、僕は一瞬躊躇した。  笑香の影が、僕の上へと落ちて来た瞬間のフラッシュバック。 僕は思わず目を閉じた。  つややかに揺らめく豊かな髪が、再び僕に降りかかる。  その時笑香の温かな手が僕の指へとふれて来た。指ごとスイッチを押して、暗いリビングに光をともす。 「大丈夫だよ、史郎君。私はちゃんとここにいるから」  優しい声でささやかれ、僕は大きくため息をついた。  そうだ。笑香はここにいる。  今、僕のそばにいて、僕の隣で微笑んでいる。 「……ありがとう」  僕の言葉に笑香は再び柔らかな笑顔を見せた。  僕は食器棚の前に立った。キッチンにあるものはすべて怖くて、引っ越し先には持っていけなかった。だから誰もこの食器棚には手をつけることはしなかった。  背伸びをしないで、棚の上にある造花の入ったかごを取る。 「前より楽に手が届くようになった。それだけ背がのびたってことかな」  僕は言いながらほこりまみれのかごを探った。中から手のひら大の箱を取り出す。  笑香ははりつめた顔をして、僕の行動を見守っていた。箱を開けると僕は笑香にティッシュに包まれた中身を見せた。  例のおじさんのネクタイピン。僕は直接それをつかむと、学生服のすそを引き上げ、分厚い生地でていねいにピンの表面をぬぐいさった。笑香が小さく息をつく。 「ほら。おじさんの形見の品だ。君が処分してもいいし、大事に取っておいてもいい」  僕が笑香に手渡すと、笑香は両手でそれを受け取り、大切そうに胸に押し当てた。  僕は箱からもう一つ、古ぼけた携帯電話を取り出した。二つ折りの携帯を開き、ふたたびぱちんと音を立てて閉める。  僕はテーブルに箱を置くと携帯電話の裏ぶたを取った。中に入っていた電池パックと記憶媒体をつまみ上げる。  薄い金属を指に乗せ、強い力で折り曲げた。その後、無理やりもとにもどして、携帯電話の中におさめる。 「中のデータはこれで大丈夫なはずだけど。まあ、念のために」  僕はつぶやき、電話を開くと、力を込めて思い切り逆方向に折り曲げた。  ぐしゃり、と耳ざわりな金属音が折れた箇所から漏れてきて、笑香が痛そうに眉をしかめた。  僕は置いていた箱の中に、ただの金属のかたまりになったそれを入れ直して言った。 「悪いけど、これは君が処分してくれないか。他のゴミと同じように資源ごみの日に出してくれ。……僕のマンションはゴミの管理が厳しくて」  最後に僕がぼやくようにつぶやくと、笑香の緊張した表情がなごんだ。僕から箱を受け取って、自分が持っていたネクタイピンを一緒にその中に入れる。そして、その箱を丁寧な手つきで自分のリュックにしまい込んだ。  それを見ながら僕はぽつりと言った。 「おじさんは、きっと家に帰って来たかったんだと思うよ」
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