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ため息まじりの新保の声に、僕はわずかに眉をよせた。
「頼む?」
何だか嫌な予感がする。
向けた視線に新保がうつむき、薄気味悪く肩をちぢめた。もじもじしながら口を開く。
「あのさ。五組に柿崎っているじゃん。お前の知り合いの」
ワイシャツのえりに顎をうずめると上目づかいに僕を見る。
「俺に紹介してくれないか?」
ただ見つめ返す僕のまなざしに、新保が照れたように笑った。まなざしの、本当の意味に気づかず。
「前からかわいいなと思ってたんだよ。よくうちのクラスにも来て、大西なんかとしゃべってるだろ。いっつも楽しそうで、いいなあって。お前だったらあの子のことをよく知ってるみたいだし……幼なじみなんだろ?」
笑香。
十年前、双子のように並んだ建売住宅に、僕と笑香の家族は入った。
両家ともに父親が不在がちで、僕と笑香が同級生だったせいもあり、僕達はすぐにうちとけて家族ぐるみでなかよくなった。隣どうしの気安さもあって、僕と笑香はいつも一緒に遊んでいた。
昔の僕は引っ込み思案で、明るい笑顔を見せる笑香にどう接していいのかわからなかった。初めて笑香に会った時、ただおどおどしていただけの情けない僕に、笑香はにっこり笑って言った。
『しろうくん、あたしと同じ一年生になるんでしょ? うれしい。一緒に遊んでくれる?』
その笑顔を見た瞬間から僕は彼女のとりこになった。
「笑香にはもう男がいるよ」
僕は新保に低く返した。
新保は目を丸くした。
「え? もうつきあってるやつがいるのか? そんなふうには見えなかったけど……」
わずかに首をかしげると、新保はあらためて僕を見た。
「それにしても、お前意外とすごいこと言うな。『男がいる』って──彼氏じゃなくて? お前にしちゃめずらしいな」
「何が?」
「何がって、その……」
冷たく放った僕の反応に、へどもどしながら言葉を続ける。
「その言い方がさ。なんか水嶋じゃないみたいだ」
僕は思わず笑みをもらした。僕じゃない? 一体何を言ってるんだ。
「僕は僕だよ」
僕は一言で片づけると再び窓の外を見た。さあ、五組の授業が始まる。新保になんか関わっていられない。
「とにかく、そういうことだから。笑香のことはあきらめてくれ」
僕がそっけなく切り捨てると、新保は居心地が悪そうにあぐらをくずして机から下りた。未練がましい表情で僕の視線の先をたどる。
「あ、……柿崎じゃん。なんか、あいかわらず楽しそうだな。誰としゃべってるんだ……って男じゃないか。もしかしてあれか? 水嶋。つきあってる相手って」
新保のさわぐ声を尻目に、僕は自分の歯ぎしりの音が聞こえそうなくらい奥歯を噛んだ。
この様子だと、いつまた笑香に接触する奴が出るかもわからない。これは早急にことを進めなければならない。他の男に笑香を奪われる前に。
「水嶋?」
とまどいをふくむ新保の声に、僕は小さく笑って言った。
「ちがうよ。あいつじゃない」
「え、じゃ」
授業の始まりのチャイムが鳴った。僕はテキストをそろえると、さりげなく新保に言葉を返した。
「次の古典の宿題だけど、指名はどの席まで進んだ?」
「あっ、俺まだ宿題やってねえ」
あわてて自分の席へと帰る新保の後ろ姿を見すえ、僕はついに決断した。
今夜だ。今夜、すべてを始めよう。
僕は再び口元に小さく笑みを浮かべていた。
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