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この日は午後から婦人科の診察日。
「行ってきます」
傘を差して、冷たい雨の中に身を溶けさせる。外出は億劫だと思っていたけど、一度足を踏み出してみると案外心地いい。
いつも行っている病院が急に休業してしまった為、仕方なく少し大きな病院の婦人科を受診する事にした。
病院の中はいつも行くクリニックのように居心地のいい雰囲気はなく、総合病院ならではの独特の匂いがした。個人病院が少ない地域だから仕方ないんだけど、やっぱり病気で来ている訳じゃない自分としては何となく居心地が悪い。
「木村さん、診察室へどうぞ」
平日だったせいか、さほど混んでいない病院内に私の名前が響いた。
言われるまま診察室のドアを開けると、目の前に知った顔の人が微笑んで待っていた。
「……あっ、健吾さん!」
白衣を着ていてすぐには分からなかったけど、相手は以前姉と交際していた笹島健吾さんだった。
姉の幼馴染で、私の事も中学の頃から知っている。
そして……姉とは何年か付き合って婚約までしたんだけど。
(あの天使の顔をした小悪魔なお姉ちゃんが健吾さんをどん底に突き落としたのよね……)
もう二度と会う事は無いと思っていたけど、やはり近隣に住んでいるからこうして偶然会う事もあるんだろう。
私はちょっと気まずい思いで彼の前に座った。
「絵里ちゃん、久しぶりだね……元気だった?」
「あ、はい。健吾さんってこの病院にお勤めだったんですね」
「いや、僕はピンチヒッターみたいなもんだよ。1週間に1回ここで診察してるんだ」
「そうですか」
「それにしても……絵里ちゃんとまた会えるなんて思わなかったな」
相変わらずの優しそうな微笑みで、彼は私のカルテに何かを書き込んでいる。
「……ところで、今日はどんな相談で来たの?」
急に医者の顔をした先生は、私の問診票をじっくり見つめている。
「あの、別の病院でピルを処方してもらってるんですけど。そちらの病院が今日休みだったので、こちらでいただけないかと思いまして」
「ふむ……」
健吾さんはちょっと考えるそぶりをして、一度カルテから目を離した。
健吾さんは私の事情を知っている。
姉が私が悪い男と付き合ってる……って相談したみたいなのだ。
正直、そんな事を知られて死ぬほど恥ずかしい。
でも知られてしまったものは、どうしようもない。
「まだ彼とは付き合ってるの?」
当然これは浩介との事だろう。だから私は力なく「はい」とだけ答えた。
「そうか、じゃあピルは大事だね。処方しておくから血液検査だけして帰ってね」
「……はい、ありがとうございました」
診察は順調に終わり、ほっと息を吐く。
健吾さんは私のプライベートについても姉のことについても一言も話さなかった。
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