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「流行り病については何処まで御存じかしら」
シスターが問いかけてきた。
「ただ眠り続けると」
「もうひとつは?」
「影がなくなる」
「そう。患者にはあるはずの影が一様にない。だから皆が病を"影無し"と呼ぶのよ」
罹患すれば沌々と眠り続けるその病は王都から離れたこの地方で起こった。
原因はわかっていない。
「何故影無しは起こるのか、罹患者はどうなってしまうのか…わからないということはひとの不安を徒に煽ります。わたしは我が主の御心のまま、哀れな患者たちを救うために此処に遣わされました。患者は増えるばかりの現状、もはや手段を選んでいる時期は過ぎたのです」
病にかかるのは、子どもと、若い女。男の子どもはかかるのに、何故か成人した男はかからない。
そして、一度影をなくし、眠りに落ちた患者の中で目覚めた者はいない。
…例外を除き。
「だから、唯一病から目を覚ましたヘーゼル・シンプソンの監視をしろと? 彼は、長く眠り続けたせいで脚の筋力が落ちて車椅子生活を余儀なくされているんですよ」
シスターが沈痛な表情を浮かべる。
「ええ、存じています。なんて痛ましいことでしょう…。けれど彼は唯一の生還者です。有力な情報を得られる可能性があるのは、もはや彼しかいない。ヘーゼルくんは事故当事から眠っていた間のことをまるで覚えていないと言っており、言葉での手がかりは望めません。少しでも解決の糸口になるならばと、わたしも藁にもすがる思いなの。きっと、未だ目覚めない影無しのご家族も同じ気持ちのはずです。この領地を治めるシンプソン侯爵も。時は一刻を争います」
アレックスは沈黙を貫いた。構わずシスターは続ける。
「影はもうひとりの自分、あるいは分身。魂でもあると言われています。その通りならば、あまたの影無したちには魂がないことになるわ。この闇の中、患者の皆さんの影がさ迷っていると考えると胸が痛みます。ヘーゼルくんも、影無しとなる前までは無邪気にお庭を駆け回るのが好きな利発な子だったそうです。それが目覚めてからはすっかり大人しく、ひとが変わったようだと屋敷の方々が仰っていました。…まるで、目覚める代わりに大切な何かを引き換えにしたかのように。これはヘーゼルくんのためでもあるのよ。ヘーゼルくんに取り入り、彼の一挙手一投足を見つめなさい。何が手がかりになるかわからない今、どんなことでも構いません。教会の者として名が知られているわたしでは出来ない役目です。貴方には期待していますよ、アレックス・コストナー」
ヘーゼルを唯一”流行り病”から快復した唯一の罹患者として、彼から病に対抗する糸口を探ろうとするのはわかる。だが、いくら大義名分を掲げようと、しているのは本人の意思を無視した監視だ。そして今、向かいに座る女は、アレックスにヘーゼルを懐柔し取り入れと命じている。
納得はいかない。しかし雇われの身で反論は無意味だ。頷く以外の選択肢は残されていないのだから。
「まあ給金分は働きますよ」
「報酬は弾むとシンプソン侯爵も仰っていましたわ」
「目一杯頑張ります」
食い気味に返すと、シスターがにっこりと微笑んだ。
さあ給金のために仕事だ仕事。
アレックスは三度の飯より輝く金が好きな男だった。
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