第10話 7月20日

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第10話 7月20日

夏の盛り。 太陽が沈み掛けの時間ではあるが、室外は昼間の熱気が残っていた。 日差しが強い時間帯に外出予定のあった私の身体は、火照りを内に秘めて球のような汗を生み出している。 こうなることを見越して、長い髪をアップにしてノンスリーブに薄手のカーディガンとボトムというラフな格好を選んだ筈だったが、全く意味を成さなかった。 バーでの出来事があって数日。 私は相変わらず『Avalon』に足を運んでいる。 店内はいつだって暑すぎず、冷房が効き過ぎて寒さを感じることもない。 特別変わったこともないが、『Avalon』で時間を過ごす際には、必ず羽黒が勤務していて、よく近くの席に給仕しているのを見かけている。 化粧室で崩れたメイクを整えて出ると、今日も例外なく羽黒を見かけた。 随分とタイミング良く目が合ったと自分が理解する頃には、彼が目と鼻の先まで近付いていた。 履いているパンプスのヒールの高さが手伝って、顔と顔の距離が近い。 咄嗟のことに顔を後ろに引いた。 「…びっくりした」 思わず零れた言葉に、羽黒は愉快そうに笑う。 「そんなボソッと『びっくりした』なんて言わないでくださいよ」 「えぇ?だって…」 「よろしければ、お席までご案内します。鞄、お持ち致しますね」 「…そうね。お願いしてもいいですか?」 珍しく喉を鳴らしているので、戸惑いながらも鞄を預けて従うことにした。 彼に案内されるのは初めてだ。 普段あまり後ろ姿を見ることがないので気付かなかったが、細身で華奢なイメージがあった彼の背中は広く、思いの外しっかりしているので驚いた。 不健康そうな印象だったのだが、その均整の取れた“男性”の肢体は健康的で綺麗だった。 「今日の羽黒さんは機嫌がいいのね?」 「そうですか?私はいつも通りの羽黒ですよ」 ふっと柔らかい笑い方をした羽黒は、一礼して場を離れた。 通された席は店内の一番奥まった角の席だったので、人目に付きにくい。 他とは、少し切り離された感覚になる。 自分の時間を過ごすには最適の席だったので、そこで読みかけの本を広げた。 足音が耳について顔を上げると、水差しを携えた羽黒と目が合った。 「あら」 「…あら」 声を掛けられたので、同じように返した。 私のグラスの水は満ちているし、注文した紅茶も十分にカップの中を満たしてる。 そのまま通り過ぎるだろうと思ったが、羽黒は立ち去る気配がなかった。 彼は何か考えているように視線を下に向けているので、特に用事もなかった私は彼を見詰めて返事を待った。 時間にして十秒ほどだろうか。 羽黒は思い出したように手を水差しに添えた。 「あぁ~!そうだ、私としたことが、また眼鏡を忘れて来てしまいました。…わかっていますよ、『眼鏡を掛けていた方がいい』って、また仰るんでしょう?」 矢継ぎ早にわざとらしい仕草と発言をする彼に、笑いを堪える為に無言で口元に手を添える。 再び数秒の沈黙。 それに耐えられなくなったのか、羽黒はその場を離れようとする。 その瞬間に笑いが堪えられなくなって吹き出した。 「ふっ…ふふっ!私、何も言ってないのに…ふふふっ!もぅ…そんなこと思ってませんよ。面白いなぁ…」 羽黒が足を止めて、緩やかに目を細めた。 「今日は“馬のしっぽ”ですね」 唐突な言葉に一瞬、理解が遅れる。 そして言葉の意図を悟ってまた笑った。 「え?…あぁ、そうね。ポニーテール。今日は暑いから上げて来たの」 自分の髪型を思い出して、結び目が見えるように首を横に向ける。 羽黒は楽し気にまた目を細めた。 「お似合いですよ」 「あら」 意外だった。 今までに、羽黒は言い寄られている女性の外見を褒める所を見たことがない。 あったとしても、服やアクセサリーなどの持ち物を褒めている印象だった。 「うふふ。ありがとう」 素直に感謝を伝えると、羽黒は押し黙り、少し考えるようにして口を開く。 「……これ、本気で言ってますからね?」 「ふふっ…最近の羽黒さんはいつも“本当”だから、疑ってませんよ?」 真面目な顔をして首を傾けた彼に、また笑ってしまった。 先日のバーのやり取りで、彼は営業トークが私に効かないことを悟ったようだ。 その上で、本心を流されるような受け取り方をされたのが気に入らなかったらしい。 子どもっぽい心情を読み取って返した言葉は、どうやら彼にとっての正解だったらしく、彼は満足げに目を細めて席を離れた。 彼の姿が見えなくなってから、紅茶を一口含む。 どうやら、随分と懐かれたらしい。 先日のバーの一件から、彼は息の抜き方を覚えたようだ。 今の彼は私自身にとっては好ましい。 『Avalon』には、美味しい紅茶と息抜きを楽しみにして通っている。 しかし、急激に変化する彼を眺めるのも、通う理由に加わりそうだ。
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