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第14話 11月 14日(1)
例の一件から少し時間が開いた。
自分の環境を大きく変える。
その目標の為に、私は奔走していた。
問題に当たってしまって目標を諦めるかどうかで思い悩む。
そんな多忙の合間の束の間の息抜き。
『Avalon』に足を運んだのはどうにか時間を作ることができた数回だが、店に行けば必ず羽黒を見かけた。
時間を作れたのはいつもカフェの時間だったので特に給仕の担当になる訳でもなかったし、たまに視線が合うことはあっても特別話題もなかったので話し掛けることもなかった。
一度だけ、顔色が悪いうえにどこか泣きそうな顔をしていた日があって、隣のテーブルの片付けをしていた彼に声を掛けたことがある。
「…なんだか、泣きそう?」
「……私、泣きそうですか?」
唐突に声を掛けられた羽黒は、口を離れた言葉が自分に向けられているのに気付いて、少し間を開けてそう言った。
「なんとなく。…顔色が悪いから、そう見えるのかも…?」
羽黒の顔を見上げて、首を傾ける。
どの角度になっても彼の整った顔は少し青みがかっているように見えた。
彼は普段より少し力なさ気に笑う。
「…私、もともと顔色が悪いもので。店の照明も間接的なものだというのもあって、そう見えるのかもしれませんね」
「そう?具合が悪いんじゃないならいいの。でも…ふふ、もともと顔色が悪いのも…どうなの?」
思わず笑った。
ただそれだけの会話。
当たり障りのないそんなやり取りで、彼が穏やかに微笑を浮かべたのが印象的だった。
後日その話を友人にしたところ、彼女も私以上に『Avalon』に足を運んでいて、そこでも必ず彼と顔を合わせていたことを聞いた。
おそらく殆ど休み無しで働いていたのだろうと2人が結論を出したとき、漸く彼の疲れた顔色に合点がいく。
そして今日。
ヴォジョレーの解禁カウントダウンをするイベントにも、彼はスタッフとして参加している。
「こちら、ウェルカムドリンクです」
ふわりと柑橘系の甘い香りの紅茶が差し出された。
「ありがとう。…今日は、この間よりも少し顔色がいいみたいね」
「…そうですか?」
カップを差し出す相手の顔をまじまじと見て微笑むと、彼はとぼけるように落とすような微笑を浮かべて視線を下げた。
後がつっかえていたので、そのやり取り以上のことはしなかった。
立食形式のパーティー会場となった店内は、どこも人で込み合っている。
少しでも人の少ないところを探して彷徨った。
漸く落ち着くことが出来た頃、ガラスのカップに口を付ける。
じんわりと優しい温度が広がった。
オレンジの香りと、ほんの少しだけ甘ったるく口の中に広がるシュガー。
「…美味しい」
問題にぶつかっていた心は、11月の外気の温度のように冷たく、硬くなっていたようだ。
その甘さは心地よく身体に染み渡る。
ホッと息が零れて、少し泣きたくなった。
明らかに疲弊している彼は、弱音も吐かずに確実に人としての成長を見せている。
それなのに、自分はほんの些細な問題で成長を諦めようと考えていた。
彼のこなしていることに比べれば、11桁の番号にコールすることなんて単純で簡単な解決策だった。
(…明日、電話かけよう…)
そう心に決めた。
「ねぇ!あたし久しぶりに羽黒と話したんだけどさ、なんかめちゃくちゃ優しくなってない?なんか笑ってくれたし!」
慌ただしく小走りした若い女性グループが私の目の前で立ち止まった。
興奮気味にお互い顔を見合わせているな思っていると、そんな会話が耳に届く。
「わかる!雰囲気が前と違って柔らかい感じするよね!イケメンが更にイケメンになったみたいな!後で話し掛けに行ってみようよ」
「行こ行こ!優しくなったついでに連絡先とか教えてくれないかな~。プラべで会いたい」
彼女達の言葉で、確かに最近の彼は雰囲気が変わったなと思い返す。
最初の印象は冷たく笑う”お人形”だった。
暫くして思ったのは”人を見下している嫌な奴”。
酔っぱらって話をしたときに思ったのは”自分に正直な人”。
(最近は、たまに間違えた距離の取り方をする”犬…っぽい人”、かな)
そんなことを考えながら、会場の隅に設置された回収用ワゴンに空いたガラスカップを置いた。
「…ッ!?」
振り返ると、すぐ後ろに羽黒がいた。
以前に参加したイベントと同じように、若い女性に囲まれている。
彼は、常連であろう彼女達に挨拶をして回っていたようだ。
キャッキャと黄色い声が響く。
急に密度を増したその場所に人酔いを起こしそうだったので、その場を離れるついでに化粧室へ向かう。
どこも人が溢れかえっていた。
化粧室でも、好みのスタッフに着飾った自分を見てもらおうと色めき立つ女性たちが洗面台を陣取っている。
軽く口紅を直すことだけして化粧室を出ると、姿見の横に休憩用のチェアが置かれていた。
人で賑わっているホールに戻るのは気後れしたし、ヒールでずっと立っていたので少し疲れていた私はそのままそのチェアに腰掛ける。
ふぅ、と息を吐くと肩から力が抜けるのがわかった。
―カタッ
人の気配がしてそちらに顔を向けると、羽黒だった。
少し口の端が動いたと思うと、彼はふいと顔を逸らす。
驚いた私が動けずにいると化粧室の扉の向こうの声が近くなったのに気付いた。
化粧室の扉が開く前に、彼はそのまま私の横を通り過ぎて行った。
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