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第3話 1月13日
自由を得る為には時に拘束を受けなければならない。
凝り固まった偏見と理不尽な圧迫。
社会のヒエラルキーに根強く浸透している思想。
礎の歯車から外れることを選んだ私には影響が少なくとも、一部となって動き続ける人間には強すぎる毒になる。
私は歯車を外す方法を持たないし、かといって無責任に外すことは出来ないし、したくない。
出来ることは、ただただ、浸透しつつある毒を和らげることくらいだ。
「今日は先輩と一緒に食事が出来て良かった♪」
ふっくらとした柔らかい手を握る。
彼女の性格のように優しく、温かい。
総務課で各部署の理不尽な要求に真摯に対応する彼女を尊敬しているし、だからこそ労いたかった。
「こんなお店があるなんて知らなかったよー。素敵なお店を知ってるんだねぇ」
「私も最近教えて貰って、気に入ったお店なの。先輩が癒されたらって思って」
簡易的なコース料理にオススメのワイン。
私は赤で、彼女は白。
友人とはいつもティータイムでお喋りするだけなので、『Avalon』を食事に使うのは初めてだった。
コース料理の提供には1人テーブルに担当が着くようで、こまめにグラスの空きや料理の進み具合を確認してくれる。
「お料理やワインのお味は如何ですか?」
テーブルの担当者が、料理の進み具合を確認に来る。
担当の挨拶をしたときに高杉と名乗った彼の声は、少し鼻にかかった低音でよく通るので耳に心地いい。
「美味しいです。私も紹介して貰ったばかりでコースは初めてなんだけど、とても素敵。先日はバーにもお邪魔させて貰ったんですよ」
「そうでしたか。バーはお楽しみ頂けましたか?」
「お酒も美味しく頂きましたし、面白いこともありました。あ、先輩も今度一緒に行きましょう?」
初めての店で終始緊張している彼女に話題を振ると、彼女は少し照れ臭そうに肩を竦めた。
平日は殆ど毎日、彼女は終電で帰宅すると聞いている。
予定を確定させるには、すぐに返事をするのが難しいのだろう。
社交辞令で合わせることが出来るのに、それをしない彼女の誠実な性格が好きだ。
「“面白いこと”については、何があったのかお訊きしても?」
「えぇ、勿論」
先日のやりとりを説明すると、彼は面白そうに目を細めた。
「羽黒にお会いしたんですか。彼と私、実は同期で、寮の部屋も同じ時期がありましてね。それもあってか話すことも多くて、今も割と…結構、仲良いんですよ」
「あら、ホント?仲が良いのはいいことだわ。でも私、ホント彼のこと見掛けたことないのよねぇ…。いつ見られてたのかしら…」
「そうですか?彼も割と居ることが多いんですけどねぇ…。あぁ、ワインは追加をお持ちしますか?それとも、何か別のものをお持ちしましょうか」
記憶を探る間、無意識にワインを飲み干していたらしい。
彼の一言で口の中に酸味と複雑な香りがじんわり広がっていることに気付いた。
適度な味わい深さに、甘い口当たり。
女性が好みそうな銘柄だった。
少し考えて、彼女が好むシャンパンを頼んだ。
「あれ、赤ワインじゃなくていいの?炭酸苦手じゃなかった?」
不思議そうに首を傾げる彼女の仕草が可愛らしかった。
年齢は約一回りほど離れているが、彼女はそういう感情を引き出す魅力がある。
「いいの。今日は先輩を労う日だし、先輩の好きなもので乾杯したいもの。苦手だと思ったらまた赤に戻すから」
彼女はいつだって、他人を優先させてしまう。
自分の仕事があるのに押し付けられた仕事を優先させたり、明らかに自分の症状が酷いのに他人の体調を気遣ったり。
私といるときも例外なく、後輩だからといって多めに支払いをしてくれたり、奢って貰うこともよくある。
年齢差関係なしに気の合う友人でありたいと思っている私自身としては、対等にさせてくれない彼女の優しさが、時に寂しさを感じさせる。
そんなこと、彼女に理想を押し付けるだけなので口が避けても言えないけれど。
だからせめて、私は彼女に与えられただけ、彼女を労える側でありたい。
恐縮しながらも嬉しそうな顔を見せてくれる彼女を見て、改めてそれを感じる。
「普段もワインをお飲みになるんですか?」
「そう。いつもワインは赤しか飲まないんだけど、今日は私が彼女をおもてなしする日だから、彼女の好きなシャンパンがいいの」
「左様でしたか。私もワインが好きで、休みの日はよく飲むんですよ。今日も自宅にビーフシチューを仕込んで来たので、深い赤と頂こうかと思っています」
「あら、お料理されるんですか?お料理できる男性って、素敵ですよね」
話してみると、彼との味の好みや休日の過ごし方の共通点が多かった。
人間というのは面白いもので、共通点の多い対象には簡単に警戒心を緩めてしまう。
私も例外なく、彼に親しみを覚えた。
彼女が化粧を直しに席を立ったタイミングで支払い用のカードを渡すと、彼がにやりと笑う。
「…では、折を見てこっそりお返しに参ります」
悪だくみする子どもになったような感覚になった。
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