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第5話 1月27日
気ままな性格は、裏を返せば我儘。
自身が勝手を出来る自由な時間が取れなければ、その場に価値はないと判断してしまう。
『Avalon』に通うようになってから2ヶ月ほどになるが、気付いたことがある。
仕事の繁忙期を迎えた今の期間でも、息苦しくて心が潰れてしまいそうになることが減った気がするのだ。
美味しい紅茶。
静かな空間。
自由な時間に、飾る必要のない自分。
給仕するスタッフにも、それを脅かされることはない。
月の数回、数時間。
その時間が取れるだけで、日々の生活が随分と過ごしやすくなった。
今日のように、強い風でみぞれのような雪に盛大に晒されたとしても、だ。
外出には向かない天候に、客数もスタッフ数も少なく、いつも混み合って賑やかなホールフロアは厳かだった。
こういった違った店の雰囲気を楽しむのも、またいいものだと思う。
「ご注文はお決まりですか?」
白髪が綺麗に交じった長めの髪を、きっちり中央で分けている男性スタッフに声を掛けられて少し考えた。
「そうですねぇ…今日は身体がとても冷えているから、熱い紅茶が飲みたくて。オススメはありますか?」
「オススメでございますか…。本日、紅茶担当が羽黒なのですが、彼はニルギリをオススメしていましたよ」
吹き出しそうになった。
思いも掛けなかった所で、苦手意識を持った彼の名前を聞くとは。
こちらから訊ねたからには無下にも出来ないし、紅茶の中でニルギリは一番好きな茶葉だ。
「…じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました。他にご注文は宜しいですか?」
「うーん…お料理を一品食べるほどではないんだけど、寒さで体力も使ったし、少しだけ何か食べたいかも…」
「では、軽く食べられるキッシュか、期間限定で提供しているケーキはいかがですか?まだ、本日分にも余裕があったかと記憶していますが」
フードメニューの表紙を捲ると、ページに視線を落とす前に答えが返ってきた。
『Avalon』のキッシュは私の好物だった。
月替わりに内容も変わるので、飽きも来ない。
ただ、自分の身体と相談すると、どうやら私の口は甘味を欲している。
「ケーキはどんなものになります?私、生クリームとか甘すぎるケーキが苦手なのだけど、甘いものが食べたくて」
「今月ご用意しているケーキに使用されているのはバタークリームなので、そこまで甘すぎないかと思いますよ」
少し考えた末、サイズが大きくないことを確認してケーキを注文することに決めた。
小ぶりのバタークリームケーキなら、問題なく食べられる。
注文を受け付け、恭しく一礼をして席を離れた彼を見送ると、漸くホッと息を吐いた。
雪と風に晒されて、だいぶ身体を冷やしてしまったようだ。
店内は暖房が効いているが、それでも湿った服は体温を奪っていく。
手足の先がピリピリと痺れを訴えていた。
「失礼致します。だいぶ寒そうでございますが、ひざ掛けか何かお持ちしましょうか?」
痺れを緩和させる為に、手を何度も摩ることに夢中になっていたら、不意に声をかけられて、びくりと震えた。
ケーキと紅茶をトレイに乗せた、白髪交じりの彼だった。
「ありがとうございます。でも、丁度あたたかい紅茶を頂けるみたいなので、きっと大丈夫」
「そうですか?もしお辛いようでしたら、遠慮なさらずに申し付けてくださいね。淹れたての紅茶で、少しでも暖を取ってくださいませ」
オリエンタルな花が咲いた真紅の茶器に、紅茶が注がれる。
燃えるような紅の色と、湯気を立たせながら、ふんわりと香る茶葉に、凍えて固まった身体の力が溶けていくようだった。
「ご注文頂きましたニルギリでございます。こちらのバタークリームのケーキと相性がようございますので、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
肯定の意味で会釈をして、痺れの残った指でカップの取っ手を持った。
冷え切った指先に、紅茶の熱気が当たって痛い。
構わずカップに口を付けて、一口飲み下す。
食道を通って胃まで。
熱がその奇蹟をじわりと残しながら通り過ぎていく。
「…美味しい」
柔らかい口当たり。
スッキリとした喉越しの後に余韻を残す渋み。
予想していた以上に飲みやすく、悔しいほどに優しかった。
カクテルは甘いだけで空っぽだった筈だ。
アルコールが入っているかどうかで、こんなに味が変わるものだろうか。
印象が、まるで違う。
手を伸ばそうとして、タイミングを今か今かと計っている。
いざ、その時だと思えば、慎重すぎる故の一瞬の躊躇いで半テンポのズレが出てしまう。
そんな不器用さを携えた、紅茶の味。
飲み進めれば進むほど、半テンポのズレが渋みとなって口の中にくどく残り始める。
茶葉本来の特徴もあるのだろうが、それでもそんな性格が垣間見えた。
予想外の印象から、じわじわと口元が緩んでくる。
彼は、本当は“お人形”ではないのかもしれない。
あまりにも。
そう、あまりにも。
自分の感情表現が下手な不器用すぎる人間なのかもしれない。
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