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第6話 2月9日
『Avalon』の入口で携帯のデジタル画面が示していたのは17:15だった。
昼食を食べ損ねた私は、キッシュのプレートを注文した。
食事のお供に選んだのは紅茶ではなく、赤ワイン。
注文を受けた担当に勧められたワインだったのだが、一口飲んで首を傾げてしまった。
香りが弱い。
そして、味がぼやけている。
甘味は口の中に広がるが、形が曖昧で妙に喉に絡んでくる。
少なくとも、私の好みではない。
「お味、いかがですか?」
料理の給仕をしてくれた爽やかなスポーツマン風の青年に訊ねられて、曖昧に笑った。
「私には少し甘いみたい。普段はもっと深いものを好んで飲むからかしらね。…食事の後、紅茶をお願いしたいんだけれど、今日はどなたが淹れてくださるの?」
「今日は…高杉ですね」
「あら。それなら、高杉さんのチョイスでもう一杯、ワインも頂けたりします?前にお話したとき、彼と好みがとても似ていたの」
「高杉のチョイス…で、ございますか…?」
答えに戸惑うような仕草を、彼が見せた。
「できたら、でいいの。可能なら。無理なら、貴方のオススメで選んで貰えたら大丈夫」
「私、あまりワインは嗜まないもので…。一度、確認して参ります」
一礼して、彼はその場を離れた。
自分の好みを伝えるのに、これほど適した人材はいないと思って名指したのだが、困らせてしまったようだ。
確かに『Avalon』には、アルコールを扱ったイベントに挨拶をするようなお抱えのソムリエがいる。
スペシャリストを差し置いて、そんなことを言うのは失礼だったかもしれない。
だが、提供されたものが自分の好みと違ったのだ。
折角の食事の時間、口にするものは嗜好に合ったものがいいし、万全の状態で美味しく頂きたい。
対価を支払うのであれば尚更にその欲は強くなる。
「失礼致します」
胸元にソムリエバッジを付けた若い青年が、赤い液体を満たしたワイングラスを携えて傍らに立った。
「高杉が担当者から相談を受けているのをお聞きしまして、オススメを選ばせて頂いた者として、居ても立っても居られなくなりまして、差し出がましくもご挨拶に上がりました」
「あら…そんなつもりはなかったんだけど、我儘を言ってしまったみたいで…ごめんなさい」
「いいえ。こちら、先ほどと同じ銘柄にはなるのですが、高杉も一番オススメだと評してくれたものになりますので、改めて味わって頂ければと存じます」
テーブルに置かれたグラス。
ガーネット色の液体が揺れて、キラリと輝いた。
「あら…?」
思わず口をついた疑問。
聞き間違いだろうか。
一杯目と同じ銘柄だと聞いたと思ったが、色が違う気がする。
グラスを持ち上げて、光に透かしてみた。
先程よりもずっと澄んだ色をしている。
首を傾げながら、グラスに顔を近付ける。
甘いアロマが香った。
一口含めば、華やかな甘みがレースのように幾重にも重なった。
「…?」
まるで味が違う。
本当に同じ銘柄なのだろうか。
水で口内に残った香りをリセットし、改めて一口、二口。
何度も味わい直したが、結論は同じだった。
「こっちは、美味しい」
頭の中で考えがまとまり、そう独り言つ。
「…大丈夫でしたか?」
先ほどの爽やかな風貌の青年が窺うように、そう訊ねてくる。
にこやかではあるが、近付き方から相当心配していたようだ。
普段アルコールを飲まない人間に嗜好を求めたところで伝わらないのは当たり前。
彼には悪いことをしてしまった。
「ええ、今度は大丈夫。ごめんなさいね」
「それはようございました。そろそろお食事も済む頃かと思って、追加の紅茶をお伺いに参りました」
「紅茶は今日のオススメってあります?」
「そうですね、本日は黒豆を使用した茶葉がオススメと聞いておりますが…」
「あら、飲んだことがない紅茶。それをお願い出来ます?」
「かしこまりました。こちらは黒豆の香ばしい風味が特徴的で、コーヒーを思わせるお味になった茶葉になっております。ちょっと変わった香りをお楽しみ頂ければと思います」
『Avalon』で提供されている紅茶葉は、見慣れないものが多い。
取り寄せているものもあれば、店のオリジナルブレンドも多くある。
自分では決まった紅茶しか飲まないので、そういう謳い文句は好奇心を刺激される。
心を躍らせながら残りのワインを飲み干した辺りで、香ばしい匂いを纏わせた彼がやってきた。
杉の葉のような模様が描かれたシンプルなカップに注がれる栗皮色は鮮やかだった。
コーヒー風味と聞いていたが、香りは麦茶やほうじ茶に近い気がする。
期待に胸を膨らませて、カップに口をつけた。
「ん゛っ…!?」
藁を燻したような鼻腔の刺激に、口の中に広がる例えようのない渋み。
細かい茶葉の破片が喉を刺激して不快感を煽りながら主張してくる。
この味は、ストライキを起こす労働者の苛立ちに似ているだろうか。
まさか、味への信頼を寄せた高杉に、こんな責め苦を受けるとは思わなかった。
紅茶に含まれた思わぬ激情と、高杉という人間の新しい一面が垣間見えたことに笑えて来た。
今日は、波乱に満ちた刺激的な日だ。
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