第7話 3月25日

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第7話 3月25日

予約時刻は19:35。 ディナータイムで『Avalon』に足を踏み入れるのは二度目になる。 普段はプレート料理だけで胃袋が事足りるので、コース料理の提供に切り替わってからのこの時間帯に訪れるのは非常に珍しい。 今回は友人たっての希望だった。 帰宅時間の関係からディナータイムに『Avalon』を訪れることのない彼女は、虎視眈々とチャンスが巡ってくるのを狙っていたようだ。 浮足立った様子の彼女は、いつもよりも笑顔が華やかだった。 「今日の担当、誰でしょうね?」 「さぁ…。でも、担当して頂くなら一度は顔を合わせたことがある方がいいですね。初対面だと、気を遣ってしまうから」 『Avalon』へ向かう道を歩きながら答える。 普段より多い人込みに、思うように歩みが進まない。 何故、このように人に溢れているのかと考えていたら、そういえば(こよみ)上では休日だったことを思い出した。 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」 店に着いて予約名を告げると、以前も会ったことのある白髪交じりの男性スタッフが迎えてくれた。 彼と会った時はとても寒い日だった。 しかし、彼の心遣いで帰宅する道、とても心が満たされた記憶がある。 彼が担当であるなら心強かった。 実際に、料理の提供は滑らかだったし、たまに振られる話題にもスマートな対応で友人を笑わせていた。 今日も心身ともに満たされて帰宅が出来そうだ。 「失礼致します」 白髪交じりの男性スタッフが恭しく声を掛けてきた。 彼より一歩下がって、羽黒が立っている。 「(わたくし)、別件を申し伝えられてしまいまして。お二方には大変申し訳ないのですが、担当をこちらの羽黒に引き継がせて頂く為のご挨拶に上がりました」 「あら…♥」 安堵した矢先に、なんという展開を起こしてくれるのだろう。 彼女は以前に私が話題にしたことで、羽黒に興味を持っていた。 名前を聞いた瞬間に顔を輝かせているし、悪戯っぽい視線をこちらに向けている。 「お食事も既に後半ですから、お世話をさせて頂く時間は短いかもしれませんが、よろしくお願い致します」 艶を含めた声音でそう言い、彼は一礼した。 「はい♥よろしくお願いしますね♪」 彼女の視線を誤魔化す為に、口角を上げて目を細めた。 「羽黒さんとはバーでお話したきりで、カフェ部門(こちら)で担当して頂くのは初めてですねぇ…」 「初めてじゃないですよ?」 間髪なく、彼はそう言った。 自分の発言をまるで疑わないように。 この瞬間、またテンプレートを使われていると理解して笑えた。 「初めてですよ。バーでお話したときから、それっきりですもん」 「違いますよ」 また、すぐに返答があった。 何を根拠に、彼は私の言葉を否定出来たのだろう。 彼が接客した人間の数と、私が『Avalon』を訪問した数。 それは圧倒的に私の方が少ない筈だ。 客という立場での一対一の会話と、店員として一対多数の記憶のどちらが鮮明かと言われたら、前者ではないだろうか。 まるで引かない彼は逆に「そうであれ」と、固めた枠に押し込めにて来ているようで不愉快極まりない。 「バー以外でカフェでお会いしたのは、イベントの時だけですよ。その時に眼鏡をかけていらっしゃらなかったから私、“眼鏡を掛けていた方がいい”って言ったんだもの」 彼がいつものように目を細める。 瞳が映す色に「面倒くせぇな」と書いてあろうが、事実は歪めたくない。 水で喉を潤して、あとは素知らぬ振りをした。 「さっきの、ちょっと大人げなかったんじゃないですか?あんなの、『そうだったかしら?』なんて濁しておけば場が収まったのに。私、見ててハラハラしちゃいました」 彼女は胸元に両手を当てて、大袈裟に息を吐いた。 「だって私、不誠実な人間に遣う気は持ち合わせていないんですもの。私が『Avalon(ここ)』に来たときはいつも、教えて下さった貴女にあったことを礼儀として伝えているでしょう?」 「そうですけどぉ…。私も、彼の話を聞いたのはバーでのやり取りと日本酒イベントでしたっけ?そのときだけですから、わかってるんですけど…可哀相じゃないですか」 「何がですか?」 彼女に向けられた言葉が予想外で驚いた。 今のやり取りのどこに、同情や慈悲を与える余地があったのだろう。 筋が通らない事をされているのに、自分が筋を通す義理はない。 「もしかしたら、貴女の気を惹きたくてワザととぼけていたのかもしれませんよ?」 「…ハッ」 見当違いも良い所だと、鼻で笑ってしまった。 気を惹きたい人間にテンプレートな言い回しなんて使わないだろう。 そもそも他人を自分の目に映さない人間が、誰かの気を惹きたいと考えるなんて、有り得ない。 少なくとも彼にとって、私は興味の対象ではない事は確実だし、私も積極的に関わりたいとは思わない対象だ。 思う感情をそのまま告げると、彼女は至極残念そうな顔を見せた。 「でも、世の中には絶対っていうことはありませんからね。もしかしたら…があるかもしれませんよ?」 彼女は私に、何を期待しているのだろう。 少し、わからなくなった。
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