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第8話 7月4日
陽が落ちても暑い日が続く。
予約時間より少し遅れて 『Avalon』に到着した。
時間に余裕があると油断して、近くの本屋を物色し過ぎた為だ。
バー部門に訪れるのは久しぶりだった。
以前と同じように地下の別フロアに案内されると、再度3人のバーテンダーが立っている。
一人は長髪を一括りにし、引き締まった筋肉のシルエットが綺麗な“久保田”。
久保田は、バー部門の責任者のようだった。
彼のカクテルを何度か飲んだが、とても好みの味わいを出してくれるので、純粋に彼がいることが嬉しかった。
もう一人は、最近よくカフェで顔を合わせることが多かった“平河”。
話す機会が多かったのと、趣味の一つが同じということで、安心感がある。
そして、羽黒だった。
最近の彼は眼鏡を掛けるのをやめたらしく、色白の中性的な顔立ちが露になり、以前より目を惹いてくる。
「いらっしゃいませ」
入口の近くに立っていた羽黒がそう告げる。
3分の1の確率。
何故、苦手な彼に当たるのか。
出されたおしぼりを受け取って、そんなことを内心で笑ってしまった。
「バーはお久しぶりじゃないですか?」
「そうですねぇ…」
話し掛けられて、少し驚いた。
微かに目尻が下がっているので、笑ったように見えた。
「…ねぇ、羽黒さん」
「はい?」
「変なこと訊くんだけど、今日の羽黒さんは“羽黒さん”で合ってます…?」
彼は一瞬きょとんとした顔をして、面白そうに笑った。
「はい。あぁ…でも、皆様に日々色々な“羽黒”を見て頂きたいと思っているので毎日が“NEW羽黒”かもしれませんね」
思わず笑ってしまった。
突拍子もない質問をした自分が悪いのだが、そんな切り返しが来るとは思わなかった。
「ふふっ、そうなの?でも安心したわ。知らない人かと思っちゃったから」
「羽黒は羽黒に代わりありませんから。…そうそう、一杯目はお決まりになりました?」
「んーと…あ、モヒートがある。モヒートがいいです」
メニューを捲ると、カクテルの中で一番好きなものを見付けた。
『Avalon』のカフェ部門ではキッシュ等が月毎に変わるが、バー部門でも同様に月毎に何種類かのカクテルが変わる。
最も好むカクテルがあるとは思わなかったので、今日は運がいいようだ。
「かしこまりました」
そう告げると、前回と同じように彼は布ナプキンを二つ折りにしてカウンターに敷くと、その上にスピリッツを置く。
グラスにミントを入れ、丁寧に潰し始めた。
「…あ。ミントのいい香り」
爽やかな香りと甘味が鼻腔を擽る。
「ミントがお好きなんですか?」
「んー…好きかと問われたら好きですね。ミントも好きだけど、私はラムとライムが好きだから、どちらかと言えばモヒート自体が好きなの」
「スッキリしたカクテルがお好きなんですね」
「そうね。モヒートって季節色の強いカクテルでしょう?だから、メニューにあると浮気せずにそればっかりになっちゃうの」
思ったより話しやすいことに戸惑う。
以前は随分と冷たい印象を受けたのだが、それがない。
少し考えたが、理由はわからなかった。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
ライムピールでグラスに飾りを添えたモヒートが目の前に置かれる。
一般的に知られているモヒートはホワイトラムだが、出てきたモヒートは綺麗なアンバーだった。
一口含むと、ふわりとしたブランデーのような甘さとミントの清涼感に加え、古い樹木のような深い味わいなのにフルーティなまろやかさも伺えた。
少し、ワインに似ているかもしれない。
「…あ、凄い。色んな味がする」
「羽黒のカクテルはお気に召して頂けましたか?」
味わいのまとまりに満足していると、そう訊ねられた。
声の主は久保田だった。
「美味しいです。でも…このラムならストレートで飲みたいかな?」
「おや…流石ですね。確かに、私も飲み方としては一番それが美味しく飲めると思いますよ」
「ふふ。今度ストレートで試してみます」
安定した言葉のやり取り。
彼の経験を感じさせるその余裕が心地いい。
二口目。
ラムの味わいに気を取られていたが、感情も色々と含まれているようだ。
カクテルを作った主は、顔を合わせてすぐに突拍子もないことを訊ねられたことで存外、戸惑っていたらしい。
何故、そんな問われ方をしたのか。
何故、問いかけた主はそう思ったのか。
そんなところだろうか。
乏しい表情に比べて、感情がそのままストレートにカクテルに映る彼は、とても純粋で好ましい。
「2杯目のご注文、お受けしましょうか?」
暑さとカクテルに込められた感情の面白さで、進みが早まっていたようだ。
いつの間にか、グラスは空になりかけていた。
「お願いします。同じのを、もう一杯」
「承知致しました」
一番好きなカクテルを、一番好きなバーテンダーに作って貰える。
なんと贅沢なことだろう。
久保田は手早くグラスに氷を入れてバー・スプーンで氷を回転させて冷やす。
丁寧に水切りをすると、漸くスピリッツを注ぎ始めた。
「…お待たせしました。モヒートでございます」
「ありがとうございます」
口に含んだカクテルは、ミントの香りと清涼感を生んだが、彼が作る普段のカクテルより少し甘く感じた。
ラム自体の甘味がそうさせるのかもしれない。
じわりと広がる甘さは、喉を潤しながら体内に染みていった。
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