第9話 7月11日

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第9話 7月11日

ほろりと気分が良かった。 先週今週と連続して『Avalon』のバー部門に足を運ぶのは珍しい。 「こんばんは」 予約時間は10分程過ぎていた。 少し予定が空いてしまったので、近くのスポーツバーで軽く時間を潰して過ごしいていたのだが、メニューにモヒートが載っていた。 それが少し甘さは目立ったが、口当たりのまろやかさが好みだったので、ついつい予約時間ギリギリまで居座ってしまったのが原因だ。 扉を開けた先に空席は2つ。 通された席の隣は友人同士らしい女性2人組で、その話し相手をしているのが羽黒だった。 「いらっしゃいませ。本日は何をお召し上がりになりますか?」 「ふふ、今日もモヒートをお願い出来ます?」 手渡されたおしぼりを受け取りながら答えると、羽黒がふっと笑った気がした。 「かしこまりました。私がお作りしても?」 「ええ、勿論」 彼はいつものように丁寧に布ナプキンを折りたたみ、そこにスピリッツとカクテル器具を並べていく。 ほろ酔いの私は鼻歌交じりにそれを気分良く眺めた。 「…楽しそうですね」 「えぇ、楽しい。前準備で周りの環境を整えてからカクテルを作るの、羽黒さんだけだもの。人によって作り方が違うから、見ていて楽しいですよ」 羽黒の口元が、ニヤリと歪んだ。 「自分がやりやすいように土台を作るのは大事ですからねぇ。コツコツ積み上げられる方は凄いですよ」 「そういうの、割と嫌いじゃないですね。土台を固めるために、ひたすらフミフミ…と」 羽黒は細くスラリと長い両手の指先を揃えて、布ナプキンの上で猫が寝床を踏み整えるような仕草をしてみせた。 それが少し幼く、普段の彼よりも柔和な空気を纏って見える。 いつもの彼より表情豊かに感じるのは、自分自身も酔いが回っているからだろうか。 「お待たせしました」 「ありがとう」 出来上がったカクテルは、先週と同じように見えて少し違うようだ。 グラスの縁に飾られているライムのピールの形も。 「…美味しいですか?」 一口味わう私に、彼は首を少しだけ傾けて訊ねて来た。 こんな質問をされたのも、初めてだ。 「ん゛んっ?……ふふ、美味しいですよ?」 思わず笑ってしまって、咽せそうなのを抑えて答えると、彼は機嫌良さげに微笑を浮かべながら席を外す。 一体、何だというのだろう。 気を取り直して飲み進めたカクテルは、相変わらず味が綺麗に纏まっていて美味しかった。 ただ、先週に飲んだカクテルに比べると随分と優しい味がする。 “人に向き合った”印象のある、柔らかい口当たりだ。 その味に、初めて羽黒と視線が合った気がした。 羽黒とは何度か話をしているし、今、自分の視線はこの急速に味の印象が変わったカクテルグラスに注がれているうえに羽黒は隣の2人連れの女性達と話をしている。 現実的に考えて、そんな表現はおかしいのだが。 そんなことを悶々と考えていると、女性達が笑い声を挙げた。 「でも、羽黒さんってホントにイケメンですよね~。彼女(ともだち)がすっごい推してくるから、一度会ってみたかったんですよぉ。そしたらマジでイケメンでびっくりしました」 「ハハ、顔なんて…整っていたところで、何の価値もありませんよ」 「ヤダぁ~返しもクールだし超イケメ~ン!ヤバ、絶対また友達と来ます~♥」 笑い声で自然と視線がそちらに向いていて見えたやり取り。 2人の女性に向ける微笑は、人形のように張り付いていて冷たい。 極端な表情の差異は、アルコールが回っている自分にとっては笑いの格好のネタだった。 空いたグラスをカウンター向こうのシンクに置く為、羽黒が正面に立った。 時間を稼ぎたかったのか、そのグラスを洗い始める。 彼にとっては日常。 淡々とこなす事務作業のような応対。 それを考えたら、きっと自分のように感情で突拍子もない発言をする人間は、確かに物珍しいのかもしれない。 カクテルの味が急激に変わった理由の仮説の筋道が綺麗に通った瞬間、何とか耐えていた笑いが決壊してしまった。 「んふふっ…ねぇ、羽黒さんって面白い。凄くわかりやすいから、見ていて楽しい」 彼のグラスを洗う手が止まった。 「…わかりやすい、ですか?」 「きっと、素直な方なんでしょうねぇ。羽黒さんって、ちゃんと考えながらお話してくれるでしょう?私もそうなんだけど、予想外のことに弱いところとか、結構わかりやすい」 「…弱い、ですか?」 羽黒がグラスを洗う手を止めた。 「自分の中でテンプレートがあるんだけど、それ以外のことに当たると、処理がちょっと遅れちゃうやつ」 「あぁ………そうですね。そうかもしれません。あ、お次のカクテルもお作りしましょうか?」 羽黒は私の言葉に独り言つようにして、話題を変えた。 同じ物を頼むと、羽黒は笑った。 「ホント、お好きなんですねぇ」 「えぇ。だって本当に好きなものは、変わらないもの」 羽黒は花が咲くようにふわりと目を細めると、俯いて考えるように目を泳がせる。 その瞳は、見透かすような発言への苛立ちと、予測外の存在への戸惑い。そして好奇心が入り混じった色を映していた。 「…でも、アレよね。羽黒さんは、やっぱり眼鏡をかけていた方がいいわ」 「ハハッ、そうですか。 眼鏡がお好きなんですか?」 感情がむき出しの表情に思わず零れた言葉に、彼はいつもの調子で作った笑顔を見せてくる。 「いや、そうじゃないんだけどね。羽黒さんって、人をよく見てるでしょう?眼鏡を掛けていた方が、視線が緩和されて安心するというか…」 「…つまり、視線を誤魔化すために眼鏡を掛けろ、と?」 「んー…そう、ね」 うっかり口を突いた言葉に、不躾なことを言っている気がしたので苦笑いをする。 羽黒は面白そうに喉を鳴らすと、満面の屈託のない綺麗な笑みを向けて、こう言った。 「絶っ対に、眼鏡かけませんから」 この後に彼が作ったカクテルは、喧嘩を売ってくるように挑戦的な、でも相変わらず優しい味だった。
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