第6章:もうひとつのアルテア(4)

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第6章:もうひとつのアルテア(4)

「……消えてない」 『神の目』を用いたリリムが目を見開き愕然と呟いた。 「そうですね。あの蛇の息遣いを追えます」同じく『神の耳』を発動させたソキウスが耳に手を当て灰色の瞳を細める。「これは、地下へ向かっている?」 「地下には何がある」  顔についた血を拭いながらインシオンがアーヘルに訊ねると、自失状態に陥っていた少年王は、はっと夢から覚めたかのように現実に立ち返り、深刻な表情で告げた。 「装置だ」  一言ではわかりかねてインシオンが眉間に皺を寄せると、アーヘルは続ける。 「千年前、元はひとつの浮島に過ぎなかったアルセイルに、ヒノモトの人間が仕掛けた航行装置だ。それをつけて、土地を拡大する事で、アルセイルは決まった海路を辿る現在の形を保っている」  千年前の失われた技術で造られた装置は、現在のアルセイル人には到底理解できない仕組みで動く完全なブラックボックスで、何か不具合が生じても直せる人間はいないという。 「それが止まれば、海のど真ん中に往生した島ひとつなど簡単に干上がり、千の民はあっという間に死に至るだろう。いやその前に、行き場を失った動力が暴走して、島ごと吹き飛ぶ可能性もあるという」  そう言って、アーヘルは青ざめて唇をかんだ。  インシオンに彼らを助ける義理など無い。エレをさらってさんざん危険な目に遭わせたのだ。滅びの報いを受けたところで、正直痛痒にも感じない。  だが。  腕の中の少女が今目覚めていたら、それでもアルセイルの民を救う事を望むだろう。これ以上人の命が失われる事を望まないだろう。 『助けましょう。無意味に誰かを死なせない為に』  翠の瞳に凛とした光を灯して、きっぱりと言い切る姿まで脳裏にはっきりと思い描ける。それを考えれば、腹は決まった。 「リリム」  名を呼び、近づいて来た少女に無言でエレの身体を託すと、インシオンは破神殺しの剣を握り直して立ち上がった。その瞳には決意の炎が宿っている。 「シャンメル、お前の『足』を貸してくれ」 「言われなくてもそのつもりー」 「ソキウスは『耳』で蛇を追え」 「そう言うと思ってとっくにしていますよ」  男達に声をかければ、頼もしい返事が返って来る。 「どうも破獣化しているようで、唸り声まではっきり聞こえます」  追加された情報はあまりありがたくないものだが、この際、追えるのならば何でも構わない。インシオンとソキウスがシャンメルの肩につかまると、少年がにやっと笑って、『神の足』で『駆けた』。  常人の数倍の速度で移動しているはずなのに、周りの光景ははっきりと見てとられる不思議な感覚は酔いそうで、なかなか慣れない。この力を用いている当の本人はどういう気分でいるのか。寿命が縮む代償を払っているので、それどころではないか。  考えている内に、王宮内を抜け、地下へ続く石段を飛び下り、下へ、下へ。島の中枢にあると思われるその場所へ辿り着いたインシオン達が見たものは、地上のアルセイルの姿からは想像もできない光景であった。  人為的に掘られたと思しき空間。神代の伝説に出て来る巨人でも住まわせるのかと思うほど、全く手が届かない高さを誇るその空間は、天井から壁、床まで一面、鈍色に輝く金属製の板に覆われている。奥には、赤や緑、青、様々な色が明滅し、到底読めない千年前の言葉が光って流れる装置が、壁一面に埋め込まれるようにはまって、低い駆動音を立てていた。  シャンメルから離れて、ここにいるはずの破獣を探す。金属の床は一歩を踏み出すごとに高い靴音を弾き出して反響した。 「インシオン!」  ソキウスの警告が飛ぶより一瞬速く、急速に背中へ迫る殺気を気取って振り返る。咄嗟に掲げた剣がのこぎりのような牙列を受け止めて、甲高い音を立てた。  レスナの放ったアルテアの蛇は、彼女の妄執を具現化したかのように醜い変貌を遂げていた。図体は通常の破獣と大差無いが、翼は無く、ちろちろと長い舌を揺らす、蜥蜴のような顔が左右にふたつ。腕は四本。飛びすさった身体は蜘蛛のごとく床にはいつくばっている。それが、体格に似合わない素早さでかさこそと動き回る様は、生理的な嫌悪感を煽った。  破神殺しの剣の正式な材質名は鋼水晶というらしいのは、シュリアンから聞いた。その透明な刃を握り直し、インシオンは醜悪な破獣に向けて床を蹴った。  破獣は耳障りな奇声をあげ飛びすさってインシオンの一撃をかわすと、すぐに六本の手足で跳ねてこちらに踏み込み、腕の一本を振り払った。かん、と靴音高く跳ね上がって後転したが、前髪が一房薙ぎ払われてはらりと宙を舞う。あとひとまたたき分反応が遅かったら、両目をえぐられていただろう。  破獣が嘲嗤うような声を立てて飛び上がり、金属の壁にへばりついた。想像を超えた力で凹みをつけながら壁をよじ登ってゆく。まるで『ついて来られるものならついて来い』とばかりに。  だが相手が悪かった。インシオンは元は(イン)で、今は英雄(インシオン)だ。そんじょそこらの凡庸な兵士ではない。あらゆる戦いの技を養父に叩き込まれている。こちらも床を凹ませかねない強さで踏み込むと、勢いに任せて、破獣が作った壁のくぼみに足を引っかけながら、その長身でできるのかという身軽さで、跳んだ。  そして、振り返って唸る破獣の顔に、透明な刃を力の限り叩き込む。のけぞる背中を蹴って空中で一回転し、そのまま剣を振り下ろして、右側の腕二本を同時に斬り落とした。  均衡を失って壁を伝えなくなった破獣が無様に落下してゆく。インシオンも体重をものともせぬ静かな音で降り立ち、ひとつ息をついた。 「――上です!」  ソキウスの声が耳に突き刺さったのはその時だった。はっと見上げれば、天井からインシオン目がけて新手の破獣が降って来る。そういえば蛇は二匹いた事を失念していた。耳まで裂けた口が、獲物を捉えた喜びににたりと笑っているようにも見えた。  しかしその牙がインシオンの身に食らいつく事は無かった。高速で宙に飛び出した者が破獣を跳ね飛ばす。不意打ちを食らった破獣は呻き声をあげながらごろごろ床を転がった。 「こっちはオレが引き受けるからさ」片刃剣と短剣両刀のシャンメルが、破獣を見すえたまま、にやりと笑う。「インシオンはきっちりそいつとケリつけてよ」  強敵に出会えた歓喜に青灰色の瞳をぎらつかせて、少年は破獣に突っ込んでゆく。シャンメルに任せておけば安心だろう。インシオンは改めて己の敵と向かい合った。  落ちた場所が悪かったか、腕二本を失った破獣は、アルセイルを動かす装置の上にへばりついていた。苛立たしげな声をあげながら二対の金色の眼球でインシオンを睨み、相変わらずぺろぺろと長い舌を出し入れしている。  インシオンは油断無く剣を構えたままじりじりと後ずさり、そしてある瞬間に背を向けて走り出した。  戦場ならば、敵に背中を見せるなど英雄にあるまじき行為となじられるだろう。だがそれは、人間同士の尊厳を懸けた戦の中の話である。そもそも自分は影だ。相手の誇りも信念も何も考慮しない殺し方などはいくらでもして来た。  そして今、破獣は傷口からどろりとした血を流しながらも残る手足で器用に這い、装置から離れてインシオンを追って来た。相手が狙い通りに動いてくれた事に、思わず口元を笑みの形に歪めてしまう。  適度に引きつけたところで足を止め、こちら目がけて跳ね上がった敵の気配を感じて、振り向かないまま肩越しに剣を突き出す。熱い息が首筋を撫でた直後、刃が肉を引き裂く感触が手に返る。飛びかかる勢いのまま喉を串刺しにされた破獣の悲鳴が耳をつんざいた。だが、手心を加えてやるつもりなど毛頭無い。膂力に任せて剣を身体の前に振り下ろす。剣に刺さったままの破獣の身体が床に叩きつけられ、頭蓋の砕ける音がした。お構いなしに強烈な蹴りを入れ、剣を引き抜く。  素直にインシオンを英雄と讃える人々が見たら、二つ名である『黒の死神』の面をまざまざと見せつけるようなむごさに、大層恐怖しただろう。しかしエレは、この破獣を生み出した女によって、もっと辛い痛み苦しみを味わったのだ。この程度で腹の虫はおさまらない。それでもそろそろ終わりにしてやろうと思ったのは、せめてもの慈悲だった。  赤い瞳をすっと細めると、インシオンは破神殺しの剣を振り払う。残る首も胴体と泣き別れて宙を舞い、破獣は黒い粒子となって消滅してゆく。鬱陶しげに返り血を拭いながら見やれば、シャンメルももう一体の心臓を貫くところだった。  航行装置にも異常は無いようだ。アルセイルをおびやかす脅威はひとまず去った。  しかし、レスナの遺した言葉と、彼女がアルテアを持っていた事実。こちらの思惑の及ばない場所で何かがうごめいているのではないかという不安の種は、インシオンだけでなく、アルセイルの人々の心にも植え付けられただろう。
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