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終章:やってきたもの
惨劇の後、第一王妃シュリアンのはからいで、インシオン達は血に濡れた身体を洗い、代わりの衣に腕を通して、賓客をもてなす部屋に通された。
レスナを含む、死した人間の身体は火で燃やされ、血染めの部屋も徹底的に洗浄されたという。一命を取り留めたエレは別室で眠り続けていた。傍についていてやりたい気持ちはインシオンの中にあったが、アーヘル王の呼び出しを受けて、部屋を離れるしか無くなってしまった。
「エレを頼む」
そう言いながらソキウスに、己の武器一式を差し出す。
「敵と対面するのに丸腰で行くのですか?」
「もう、敵じゃねえだろ」
彼が不審がるのは容易に想像できる反応だったので、淡々と返す。それにもし、アーヘルが向かい合った時に剣を抜いて来たとしても、素手で返り討ちにするくらいの手段は幾つも持っている。
そしてインシオンの期待通り、会談の場に現れたアーヘルは、自らも帯剣していなかった。先に腰を下ろしてインシオンに席をすすめ、こちらが座り込むのを待つ。侍女が硝子の杯を運んで来て、乳白色の液体を注いで行った。
「本来ならば、上客には酒を出すのがアルセイルの流儀だが、おれがまだ飲めない上に、これから語るのは酔った相手にする話ではない」
アーヘルはそう断り、自ら先に杯を傾けてみせる。インシオンも倣って口をつけると、大陸には無い柔らかい甘味が舌に触れ喉を流れた。
「……男が来たのだ。イシャナ人の男が」
杯を脇に置いて、アーヘルが語り出した。
「アルセイルの滅亡が迫っている、だがアルテアの巫女を手元に置けば、それは逃れられると」
勿論初めは、正体も知れぬ流浪の大陸人の言葉など信じなかった。しかしそれから、日照りが続いて作物が満足に採れなくなる地域が出た。毎日の漁も不毛になり、明らかな異変が訪れ、慌てて大陸に兵を派遣してアルテアの巫女の噂をかき集め、エレの存在に辿り着いたという。セァク人であるヨランを利用したのも、より確実な情報を得る為だった。
「エン・レイ……いや、エレを手に入れてから、実際変わったのだ。気候も漁獲量も回復した」
だが、と少年王は自嘲気味に唇を歪める。
「所詮まやかしだったのだな。国を守る事ばかり考えて、人の声を聞かなかった結果が、レスナの暴走だ。あいつを止められず民を危険にさらしたおれは、王失格だ」
「それはお前が決める事じゃねえよ」
インシオンの言葉に、アーヘルがうつむきがちだった顔を上げた。
「あれだけの事があった後でも、兵や王妃はお前を王と認めてるだろ。王が失格かどうかなんて、民が評価する事だ。そしてお前は王として立つ資格を失っていない」
脳裏に浮かぶのは、大陸の二人の王。一人は弱い身体を抱えながら、一人は幼い身でありながら、二人とも剛い精神を持っている。それが王としてあり続けられる強固な拠り所なのだ。
「人間も同じだ。破神の血を持とうが持つまいが、心が全てを決める」
自分の胸に拳を当てて、インシオンはきっぱりと言い切った。
「エレがそれを俺に教えてくれた。あいつは今の俺の全てだ。もしそれでもあいつが欲しいってなら、正々堂々剣で決着をつけてやる」
少年王はしばし二の句が継げずにぽかんとしていたのだが、ふっと苦笑すると首を横に振った。
「いや、必要無い。敵わぬよ。剣も、想いも」
そして彼は杯を干すと、膝を立てた座り方からあぐらに組み直して、真摯な瞳でインシオンをまっすぐ見すえた後、床に拳をつき深々と頭を下げた。
「アルセイル王として、今までの非礼を詫びよう。早急に大陸へ帰れるよう手配もする。アルセイルを救う術は、アルセイルの人間自身が模索する」
大物の器だな、とインシオンは予感した。今は未熟でも、いつかはレイやヒョウ・カにひけを取らない君主として慕われるようになるだろう。その時のアルセイルという国がどこまで発展しているか、見物である。
感謝の意の代わりに自らも杯の中身を空にした時。
「……インシオン」
影のように入口にふらりと現れた人物に、インシオンもアーヘルもぎょっとして振り向く。会談の場に乱入した非を詫びる事も忘れて立ち尽くすのは、ソキウスだった。ひどく青白い顔をして、唇をわななかせている。
「アーキが来ました」
一体この男を動揺させるほどのどんな情報を、彼女が持って来たというのか。インシオンは眉をひそめたが、ソキウスが続けた言葉は、予想を遙かに上回る衝撃をもたらした。
「レイ王が、崩御されたとの事です」
杯が手から零れ落ち、床に当たって真っ二つに割れた。
激しい喉の渇きに襲われて、エレは目覚めた。
しばらく前後不覚に陥り、どうしてこんな所にいるのだろうとぼんやりしていると、段々と記憶の断片が順序良く額縁にはまっていった。
レスナがアルテアを使って、破獣が現れて。そして彼女に刺された。インシオンの声を聞きながら闇に落ちて、それからどうなったのだろう。
疑問に思いながら、やけに重たい身体を起こす。外は日が暮れかけていたが部屋に灯りは無く、薄暗い。
「……インシオン?」
呼びかけてみる。返事は無い。周囲を見回しても、人の気配は無かった。
嘆息して、それから不思議に思って喉に手をやる。毒で爛れて満足に声を発する事もかなわなかったのに、痛み無く言葉を紡ぐ事ができた。そういえば、致命傷を負ったと自分でも思ったのに、何故生きているのだろう。
わからない事ばかりで、頭が混乱する。そしてそれ以上に、渇きを覚えてしょうがない。誰かに水をもらえないかと寝台を降り、部屋を出て廊下を歩くが、いつまで経っても何故か誰にも出会えなかった。
いよいよ心細さが胸に迫って来た時、突然視界に紗がかかった。砂嵐の中に放り出されたように世界がぶれて、よく見えない。直後に身体の奥底から突き上げて来た餓える衝動に、エレはその場に膝を折ってぜえぜえと激しい呼吸を繰り返した。
一体これは何なのか。混乱するエレの頭上に、かげりがさす。誰かが立ったのだと認識して、顔を上げる。そしてエレは瞠目した。
まだ少しだけ幼さを残す、知らない少年だった。日に焼けていない肌はアルセイルの人間ではない事を示している。
しかし、歪む視界の中でも目立つ黒髪と翠の瞳に、何かを思い出しそうで届かないもどかしさで頭の奥がちりちりと痛む。
「ああ、破獣化の衝動だね。辛いよね」
少年は翠眼を細めると、にっこりと満面の笑みを閃かせ、ひどく無邪気な声音で告げる。
「大丈夫。僕はあなたを救いに来たんだよ、エレ」
その笑顔がやはり誰かに似ているような気がして、エレの胸は焦燥に焼け付いたのだった。
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