幕間:まもりたいもの

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幕間:まもりたいもの

「わああああん!!」  庭から聞こえて来た、爆発するような泣き声に、食堂兼台所(ダイニングキッチン)で一人茶をすすっていた少年は、眉間に皺を寄せてカップをテーブルの上に置いた。 (また、あいつか)  溜息をつけば長い黒の前髪が揺れる。思う所があって三年前から伸ばし始めた後ろ髪は、ゆるい三つ編みにできるほどまでになっていた。  勝手口の扉を開けて庭に出る。ありあわせの木材とロープで組んだブランコが斜めに揺れる傍らに、赤銀の髪を左寄りに結った少女がへたりこんで、はばかる事無く泣き声をあげていた。 「……おい」前髪をかき上げ、赤い瞳を呆れ気味に細めて、少年は少女の前に屈み込む。「落ちたか?」  少年より一回り以上幼い少女は、ひっくひっくとしゃくりあげながら、それでも大きくうなずく。ざっと頭から爪先まで見てみれば、少女が履いていたサンダルが片方脱げて投げ出され、膝と肘には血がにじんでいた。 「頭は打ってねえな?」  赤銀の髪に手をやって、たんこぶができていないか探ると、こちらを見上げる真ん丸い翠の瞳が再び潤んで、 「インシオンー!」  がばりと飛びつかれた。 「インシオンインシオンインシオンー!!」  まるでそれしか言葉を知らないかのように繰り返される名前に、少年は困り果てた表情を浮かべて、少女の髪を優しい手つきで撫でる。 「ああ、もう泣くな。手当てをしたら、茶を淹れてやるから、泣きやめ」  戦場での容赦無い戦いぶりから、『黒の死神』などと、養父の異名に負けず劣らず物騒な二つ名で呼ばれ始めている少年が、幼子一人をなだめるのに苦労している。そんな事を軍の上層部が知ったら、『これだから、子供の酔狂なんぞ』と嘲り笑うだろう。  それでも、この孤児院に住む子供達だけは見捨てられない。『アイドゥールの悲劇』で実父が犯した大罪により、親を、故郷を失い、破神(タドミール)の血を浴びて、自分のように破獣(カイダ)になる呪いまでは受けなかったものの、その因子を帯びてしまった子供達。彼らが、人の間に混じって穏やかに暮らせるかを思った時、少年の胸には黒く冷たい鉛の塊が落ちるのだ。  それでも、いやだからこそ、彼らの笑顔を守りたい。『神の血』を持ち、破獣化に苦しむこの身をおしてでも。 「ほら」  胸にすがりついてわんわん泣く少女を引きはがし、背中を向けて促す。少女は不意に涙を引っ込めて、きょとんとしていたが、次第次第に笑みの花をほころばせると、飛びつくように背中にしがみついて来た。  少女をおぶって、立ち上がる。もたれかかって来る熱が、冷えた心に少しだけ温かさをもたらしてくれた気がした。 「……す、すみません、インシオン……」  腕の中で、赤銀髪の少女が心底すまなそうに委縮しきっている。 「少し器用に動けるようになったからって調子こくからだ、馬鹿たれ」  苦々しい表情をしながらきつい口調を浴びせかければ、相手はさらにしょんぼりした様子でうなだれた。  木剣での訓練中、少し無茶な体勢から剣を打ち込もうとしたエレが足をくじき、倒れ込んだ先に運悪く出っ張っていた岩で肩を強打したのだ。  痛さと情けなさで動けなくなった、そんなエレをインシオンが横様に抱き上げて、宿へ戻る羽目になったのである。  治癒のアルテアを紡げば痛みもすぐに消える。しかしインシオン自身が常日頃からエレに『自分の血を無闇に流すな』と忠告している為、アルテアを使う事を許さなかった。それにこの程度の打撲、湿布を当てて一日二日横になっていれば、エレの年齢ならばすぐに回復するだろう。最近の破獣退治で懐も潤っている。療養の為に少しばかり滞在期間を延ばしたところで、遊撃隊の他の面々も特に何も言うまい。 (まあ、俺の責任でもあるしな)  こちらから口に出して詫びるような、下手に出る態度などインシオンには取れないが、少女に剣や体術を教えて鍛えたのは自分である。強くなったのだと過度の自信を持たせて調子に乗せてしまったのは、自分の落ち度だ。これからは、養父が自分に対して決して大きな怪我をさせなかったように、気をつけて稽古をつけてやらねばならない。  一度は見失ってしまった、アイドゥールの子供達の生き残り。いつも大声で泣き、こちらの名を呼びながら飛びついて来た少女。  イナト郊外にあった孤児院が火事で失われた時、インシオンは盗賊退治に駆り出されて王都にいなかったため、現場に居合わせる事ができなかった。結果として、子供達を一人たりとて助けられなかった。 『まったく、英雄様の道楽が失くなってせいせいしたぜ』 『風が無かったのが幸いだな。延焼していたら目も当てられなかった』 『いっそそうなってくれれば、降格にでもなって笑い種だったのによ』  燃え落ちて炭化した思い出の跡を前に呆然と立ち尽くす彼の背後で、現場検証にあたっていた兵達が笑い交わしたのを聴いて、思わず殴り飛ばさずにはいられなかったほど、当時の彼は人間としては幼かった。実際に目にした訳ではないのに、炎にまかれる子供達の悲鳴にうなされて、汗をびっしりかきながら飛び起きる夜も幾度もあった。  当時の記憶は、腕の中の少女には無い。故意に消された、というのが正しいのだが、むしろ残っていなくて良かった、と安心する自分がいるのも事実なのだ。自覚が無かったとはいえ同胞を死に追いやった記憶を抱えていたら、誰にでも優しすぎるこの少女の心は、耐え切れずに壊れてしまうだろう。  人前では決してそんなそぶりを見せる事が無いが、救えなかった命を思い出しているのか、夜中に毛布を頭からかぶり声を殺して泣いている事が時折あるというのは、彼女と同室になる事の多いリリムから聞いている。  泣いて欲しくない。笑っていて欲しい。  少年の頃は、ただ単純に、子供にそういう反応をされたらどう対処して良いのかわからなくて困っていただけだった。だが、今は少し違う。  太陽のような笑顔を見せていて欲しい。その笑みが、春の光が少しずつ残雪を溶かしてゆくように、他人を突き放して生きる自分の凍った心に、静かな熱をもたらしてくれるから。  その気持ちに何という名前を付ければ良いのか知らないほど、インシオンはもう子供ではない。だが、その気持ちを率直に相手に伝えられるほど、彼はもう若くもなく、気軽に人に好意を示せるような人生を送って来てもいない。  だからせめて、自分の手で守り続けよう。この温もりを。  少しだけ腕に力を込めると、少女が戸惑う気配がしたが、インシオンはそれに構わず平静を保ったまま、歩く速度を上げた。 「笑っててよ、エレ」  去ってゆく二人を、いや、青年の腕に抱かれる少女ただ一人を、木の上から見つめながら、黒髪の少年は翠眼を細めて口の端を持ち上げた。  彼女に笑っていて欲しい。その笑顔を、自分だけに向けて欲しい。  記憶の中の彼女ははじめ、いつも優しい微笑みを浮かべて幼い自分の頭を撫でてくれていた。それがいつからか、笑みが消え、物思いに耽っているのか憂鬱そうな横顔を見せる事が多くなった。  そうして、悲劇は訪れた。  この世界を拒絶した翠の瞳を見開き、紅に染まったその顔は、少年の記憶に強烈に刻み込まれ、今も悪夢として追って来る。  あの結末を絶対に覆してみせる。その為に、他の何を犠牲にしても構わない。 『エレ』  胸元で輝いていた赤い石を、歪めた唇に押し当てて、言葉を紡ぎ出す。 『絶対にあなたを救ってみせる』  虹色の(いなご)が少年の肩に飛び乗る。蝗は羽根を震わせたかと思うと紺色に輝き、少年と共にその場から消えた。  一陣の風だけを残して。
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