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「お嬢様、宜しかったのですか?」
運転席から二十代前半の男の運転手が、バックミラー越しに後部座席の女性に話しかけた。
「仕方ないでしょ、仕事なんですから」
お嬢様と呼ばれた女性は三十九歳と一週間前までは自称していたが、いまの彼女はどうだろう? どう見ても二十代後半の容姿をしていた。
「ところで、報酬は振り込まれたのかしら?」
女性が問いかけると、運転手の男は、五十メートルほど斜め前方で、いま工事中の建物の外階段からバリケードを跨いで外に出た男に目配せをしながら答える。
「はい。振り込まれたと言うよりも本日、これを持って我が社に出向いて来ました」
そう言うとジップがついた透明のビニールを女性に差し出した。中には通帳と印鑑。印字された名前は『ミナミジュンペイ』
女性は三千万円の残高を確認すると運転手に渡した。
「あら、そう。で、どうなの。今回の仕事、利益は良かったのかしら?」
首をかしげる女性。
「いやいや。本来なら没案件ですよ。儲けなんかございません。店を作るのだけで経費がかなりかかったんですから……」
運転手は大げさに顔の前で手を振る。
「あー、だから私の住む二階は殺風景だった訳ね」
「すみません……」
「まぁ、いいわ。今回は楽しかったから……ねぇ、サッカレーの詩は知っている?」
「いえ。私は学がございません」
「そう。あの詩、わたし好きだから彼にあげたの。あの詩にはね、二通り解釈があるのよ。教えてあげる」
「はい」
「『愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことは、その次によい』
この詩はね『愛』は与えるもの。与えられたのだから。もうその時点で幸せだということ」
「はぁ……」
「でもね、心理学で言うとこの話は逆なのよ。心理的ストレスの一番はね、愛した伴侶を失うこと。これが世界のストレスランキングでは不動の一位なのよ」
「はぁ……」
「つまり、良いも悪いも思い一つ。表裏一体ってこと。コインの表と裏みたいじゃない?」
「あ、そうですね」
「そうでしょ? だからちょっと遊びましょ?」
「え! なんの遊びですか?」
「コインの表が出たら、彼に後日その通帳を返してあげて、裏が出たらこのまま帰りましょ?」
「お嬢様そんな、三千万円の丁半博打なんて、打てませんよ!」
「いいの。わたしがやるの。いくわよ……」
弾かれたコインは音を鳴らして放物線を描き、彼女の白い腕に滑り落ちた。
「……どうでした?」
「……彼にこの通帳、返してあげて」
「いいんですか? 本当に?」
「いいの。わたしが良いといったら、いいの。わたしを失ったんだから、彼、純平は相当傷ついているわ」
「奥様を失ったよりも?」
「そうよ! 誓ってもいいわ。わたしのコードネーム【Dark angel】に賭けて」
車は音も無く夜の街に滑り出す。ゆっくりとした一定のリズムでワイパーがフロントガラスを鳴らしていた。
「あの、お嬢様、一つ聞いても宜しいですか?」
「なに? いいわよ?」
「男性は何んでそんなにお嬢様に夢中になるのでしょうか? あ、私は男性が好みでして……」
「そうね」
えり子は後部座席から、雨に濡れて歩く純平の後ろ姿を通りすがら一瞥し、冷笑を投げて興味無さげに答えた。
「わたしの何が、そのひとを本気にさせているのか、そんなの、わたしにはわからないわ」
純平の姿が見えなくなると、えり子は足を組み、煙草に火をつけ紫煙をくねらせた。
ーーあなたならきっとあの光の海を渡れるわ。
Adiosu my prey
〜了〜
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