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五月。青が澄み渡る朝だった。
パークハイアット東京。4301号室。
南 純平は地上200mの新宿から見渡す関東平野に、昔、スキューバダイビングで海に潜ったときに見降ろしたサンゴ礁群を重ね合わせていた。
遠くまでびっしりと詰まったビル群に朝日が一斉に差し込み、波のようにきらめく街並み。幾万とうごめく人工の湿原から立ち昇る蒸気に、小指の爪ほどの大きさの富士が、遥か地平に浮いていた。
客室に備え付けのコーヒーを啜りながら天地に広がる景色をながめていると、この世界の片隅で日々、あすの糧のために会社でしのぎを削り、口に糊する自分を虚しく感じる気分になった。
純平は振り返り、シーツに包まれたえり子を手招きした。
「えり子、こっちに来てごらんよ。とっても綺麗な景色だよ。このビルの波間に、俺のビルを建てるんだ。ここから見えるどのビルよりも綺麗なビルをさ。そうしたら、お前にずっと贅沢をさせてやれる」
えり子はヒタリと素足で近寄り、身につけたバスローブの肩口を純平の二の腕に預けた。純平はえり子の顔を見る。
無表情だった。
すると、途端に、自分が到底かなわぬ夢を語る男に思われていると感じ、黙った。
わかっていた。沈黙に寄りかかり、言い訳をして、ぼかす。数秒前よりも朝日はいっそう白く街を染めていく。
「ありがとう。わたし待っているわ」
その声からはどんな感情も読み取れなかった。
俺の言葉を心の底から信じた台詞じゃないだろう? と、ここで彼女に問う事は出来なかった。
お前を幸せにする。という言葉は、常に過去形で語られなくては、行動で示さなくては実のない虚しい言葉で終わるからだ。
純平は今年で三十九になる。妻子ある自分が同い年のえり子に真剣に惚れるとは思ってもみなかった。
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