11人が本棚に入れています
本棚に追加
「それでは期日までにこちらに記載のある口座に、お振込をお願い致します」
メガバンクをバックボーンとして運営する総合リース会社の、クーラーが程よく効いた応接室で最終確認をしていた。
十五年務めた会社は一ヶ月前に退職している。退職金も全てつぎ込んだ。一つ、一つ、夢への階段を登っている実感に思わず口許がほころぶ。
全ては走り出している。後悔なき航海に。
一度、海に浮かべた船は沈むまで丘に上がることはない。
三ヶ月前にえり子に乗り、共に頂きから眺めたパノラマに広がる光の海。あの海の航路に乗れば全てが上手くいく。
さんざん文句を垂れた妻がまんざらでも無く機嫌のいい日常。今度こそ実をともなった「お前を幸せにする」という言葉をえり子にかけることができる。彼女が今まで見たこともない贅沢な暮らしをさせてやろう。
当たり前に想像できる幸せを、当たり前に実現させる。どんな美酒よりも酔える恍惚とした実感が湧いてきた。
自宅に帰る前に純平はメインカイザーでスイーツを多めに買った。ずっしりと重いビニールを下げて玄関を開ける。
「ただいま」
半自動の玄関のドアが閉まるのと、照明をつけたのと、スイーツが潰れたのは同時だった。
純平が床に箱ごとスイーツを投げ出したからだった。
無くなっていた。
玄関に細々と飾られていた装飾品。貴之が学校の課題で描いた暖色で塗りつぶした家族の絵。休みの度にあちこちの道の駅を巡って集めた、手のひらサイズの登り。貴之と妻の靴。
純平の私物はそのまま綺麗に仕舞われていた。
リビング、寝室、子供部屋。
どの部屋も同じありさまで、綺麗に床も拭かれていて、埃一つ見当たらない。それどころか、綺麗に掃除された部屋は水を打ったようにしんとして、うすら寒くすら感じた。
「こんなことは初めてだ……」
独り言ちた。舌がザラつき、喉が渇いた。そうだ、水を飲んで落ち着こう。キッチンに向かい蛇口をひねる。
ああ……。
いつも使っているマグカップもない。それならば仕方ない。と、ガラスのコップを取ろうと棚に手を伸ばした時、背筋が凍った。
ーーまさか。
弾かれた矢のごとく棚をあけて、預金通帳を探した。無い。無い。どこにも無い。三千万が無い。
預金通帳の代わりに書き置きがあった。
『飛ぶ鳥跡を濁さず。離婚調停の内容証明を後日、送ります。決して、私たちを追わないでください』
最初のコメントを投稿しよう!