紅く、美しい女性に……

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純平は妻に何度も電話をかけた。着信音は鳴るが一向に出る気配はない。メールやLINEをしても同じことだった。 『飛ぶ鳥跡を濁さず』 妻の走り書きを思い出した。くそ! 芝居じみた真似をして! コンビニで弁当を買い質素な夕食を済ませるとやることが無くなった。横になり綺麗に拭かれた床に手足を伸ばす。首を傾けて木目を凝視するとフローリングの溝に細かい毛を見つけた。貴之の毛か。妻のものか。 思い出していた。 妻は綺麗好きだった。結婚当初、二人で部屋の掃除をした時、小さく屈んで綿棒を使い、フローリングの溝を懸命に掃除していた後ろ姿を。 「純平も手伝ってよ」 「そこまで掃除しなくてもいいだろう?」 「ここはあなたの家なのよ」 「だって、仕事でつかれてるし」 「わかった。わかったぁ。じゃぁ、家のことは私がするわ。純平は外で家庭を守ってちょうだい」 妻が「純平」ではなく「あなた」と呼び始めたのはいつからだろう? あいつが、この溝を掃除しなくなったのはいつからだろう? 自然と涙が溢れていた。これではいけないと思いつつも、強い眠気が襲ってきた。 テレビをつけた。いつも観ていた歌番組が流れている。そういえば一週間前のこの日から妻とはろくに会話をして無いな。緩やかに意識が下降していく。 テレビでは今注目のアーティストが歌っていた。それが自然と耳に入ってくる。 <まだ味わうさ、噛み終えたガムの味> <ひとつ、ひとつ、無くした果てに> <ようやく残ったもの> ようやく残ったもの。目を閉じて反芻すると、瞼の裏に浮かんだのは妻ではなく、えり子の顔だった。 <これが愛じゃなければ、なんと呼ぶのか> <僕は知らなかった> どうしてだろう? えり子に無性に会いたくなった。 <呼べよ恐れるままに、花の名前を> <君じゃなきゃ駄目だと> 下半身に手を伸ばすと、残念なほどにタクトは上を向いていた。しかし性欲ではなかった。 ただ、自分を信じて頼ってくれる彼女に、あの光る海に向かえと、背中を押された気がする。先へ。先へ。 どうしてもえり子に会いたくなった。体が反応したのだ。 突然、スマホのバイブレーションが床で振動して、確認するとえり子だった。 テレビではこの歌がアーティスト米津玄師の曲<馬と鹿>だと映像に流れている。 純平は曲名を『と抜き言葉』でつぶやいて、自嘲気味に自分を嗤いながらスマホの通話ボタン押した。 この時間にえり子から着信があったのは初めてだった。この時の純平にはそこに思い至ることなど出来なかった。
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