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自宅からえり子の店までは車で三十分の距離だった。
個人タクシーを捕まえて、無理やり、半ば強引に、土下座をする勢いでシートに頭を擦り付けて、飛ばしに飛ばして、二十分で着いた。
一万円札を助手席に放り込んで、脇目も振らずに駆けつけると、そこに店は無かった。
看板が外されて、既に違う店の内装工事が始まっていた。
信じられなかった。
工事期間の張り紙を引きちぎると、着工は一週間前となっていた。
ーー最後にここに来たのはいつだ?
長い一日で酩酊する意識を振り絞ると、八日前だった。つまり、翌日には工事していることになる。
店の資材はどうなる? 厨房器具は? 椅子や、テーブルや、観葉植物……。
考えれば考えるだけ、わからなくなった。
ーー2階のえり子の住居は?
工事用のプラスチックのバリケードを跨ぎ、外階段から二階に上がる。踊り場のプランターの下に鍵は……あった。
中に入った。
元々少ない家具は綺麗に無くなっていて、えり子が付けていた香水の残り香が、工事用のプライマーから揮発するアクリル臭と混ざり彼女がここに二度と戻ってこないことを教えていた。
「えり子……」
ふぅん。と子犬が鳴くような声が喉の奥から漏れて、商店街の街灯が磨りガラスから淡くこの部屋に差し込んでいる。
街灯の方にふと目を向けると、ガラス窓に文庫が立てかけてあった。手に取った。栞が挟まれてある。パラパラと捲り栞のページを開くと鉛筆で一部にアンダーラインがひいてあった。
イギリスの作家、ウィリアム・メイクピース・サッカレーの詩だった。
『愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことは、その次によい』
「やめてくれ、えり子……」
純平は三回その場で詩を読んで跪き、一時間ほどしてからゆっくりとその場を去った。
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