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第一章 忍び寄る黒
時は、安寧の時代。天下を巡る戦が終結しておよそ、三桁の年数が経った。
幕府を政治の中心地に据え、天下を勝ち取った将軍一族が治める世は、小さな諍いこそあるものの、大勢の人間が犠牲になる戦はなくなった。
一見するとこの国は平和な世を築き上げているのだろう。
しかし恐ろしい獣の存在が、戦いが終わった世に大きな影を落としていた――。
秋色に染まる山中。地面を踏み締める度に葉擦れの音が聞こえてくる。
「何だこいつ!」
しかし紅に色付く山を堪能する余裕はなかった。
彼は目の前の存在に刀を向けると、声を荒げ悪態を吐く。
それは地面に落ちた紅葉を踏み付けると、彼等に近づいて来た。
それは一見狼に見える獣だった。しかし普通の狼より一回り、いや二回り大きい。
――そして何より違うのは、全身黒い体毛に覆われ、瞳ですら黒一色に染まっている所だった。
「――黒き獣」
仲間の一人が小さな声で呟く。
獣――いや黒き獣は彼等を一瞥すると威嚇するように唸り声を漏らした。
「一斉に掛かれ! 少しでも隙を見せたら殺されるぞ!」
戸惑う彼等に纏め役を担っている長髪の青年が叫んだ。
「何としてでも、あの方をお守りしろ!」
彼の命令に全員が刀を構え、慎重に獣を囲んだ。
味方は六人。それに対して相手は一匹だ。皆で掛かれば容易に倒せる――筈だった。
「うわあっ!」
黒き獣に薙ぎ払われ、彼は後ろに置かれた駕籠にぶつかった。
「申し訳ございません。――!」
駕籠に振り返り謝ると、右腕に痛みが走った。
先程の攻撃で爪で引っ掻かれたのだ。血が滲んで着物が赤に染まっていく。
彼は怪我をした所に手を置く。そして自分が使い物にならないと悟ると、悔しさで顔を歪めた。
目の前では彼以外の五人が獣に挑んでいた。しかし薙ぎ払われ、木に叩き付けられ、次々と倒れていく。
「そんな……」
そして到頭、全員が動けなくなってしまった。
皆腕の立つ人間だ。それにも関わらず赤子のように捻じ伏せる黒き獣に、彼は恐怖を覚えた。
不意に、それと目が合う。
黒い瞳に飲み込まれそうな恐怖を覚え、彼の体は金縛りに遭ったかのように硬直した。
――しかし、守らなくてはいけない。
抵抗する気も術もない。しかし使命感から彼は駕籠の前に立ちはだかった。
それがゆっくりと近付いて来る。もう何も出来まいと侮られているのかと思うと、無性に腹が立った。
獣は悠然と距離を詰めると、唐突に大きな口を開け飛び掛かって来た。
迫りくる獣に、彼が諦めかけたその時だった。
――木陰から人が現れ、黒き獣の鼻先を蹴り飛ばした。
予想だにしない攻撃だったからだろう。獣は呆気なく横に弾き飛ばされた。
何が起こったのか分からない。混乱したまま彼は黒き獣を蹴った人物を凝視した。
十代後半程であろう。肩に掛かるか掛からないか位の長さの黒髪と涼しげな瞳を持つ美しい青年だった。男の体とは思えぬ程華奢で、黒い作務衣の上に濃紅の羽織を重ねていて、羽織と同色の襟巻を巻いている。
突然現れた見目麗しい青年に目を奪われる。
しかし獣が身動ぎする音で、彼は我に返った。
転んで倒れていた黒き獣は唸り声を上げて、頭を振るいながら起き上がる。そして自分を蹴った青年を見遣った。
標的を移したらしく、青年に体を向け威嚇する。それに対して彼も、後ろから腰に帯びていた小太刀を抜いた。
「おい待て」
戦おうとする青年に、思わず彼は声を上げた。
彼等のような屈強な男でも太刀打ち出来なかったのだ。青年のような細い男が敵う筈がない。
制止する男の声に、彼がこちらを一瞥した。
「下がってろ」
少し高く澄んだ声で告げられる。
凛とした声は決して高圧的ではない。しかしなぜか彼は気圧され、黙って頷く事しか出来なかった。
青年はそんな彼に微笑を浮かべる。そして再び獣に視線を戻すと笑みから一変、目付きを鋭くした。
そして足を踏み出し、獣へと一直線に走り出す。
それに呼応するかのように黒き獣も青年に向かって駆け出した。
距離を詰めると大きな口を開け、飛び掛かる。
自分を食らおうとする獣を、彼は跳躍して回避する。
そして獣の鼻先を踏み台にして、さらに跳び上がった。
空中で体勢を立て直し、小太刀を構え直す。
そして青年は落下する勢いそのままに、大きく小太刀を振るった。
青年が音も立てず、着地する。
――一閃が走り、黒き獣から鮮血が吹き出した。
獣は慟哭を上げたが、すぐに倒れ――そして力尽きた。
六人相手でも歯が立たなかった化物を、たった一人で倒してしまった。
怪我の痛みも忘れて、彼は名も知らぬ青年を凝視する。
黒き獣を見る彼は酷く静かで気高かった――。
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