7人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
息絶え動かなくなった獣に、彼はそっと息を吐く。小太刀を振るい血を払うと、鞘に収めた。
獣に襲われていた旅人らしき一行は怪我人こそいるが、幸い死者は出ていなかった。
「あ、あの……」
間一髪間に合い安堵していると、戸惑いがちに声を掛けられる。
声を掛けてきたのは黒き獣に襲われていた男だった。この中で一番酷い傷を負っており、右腕上部に残る爪痕が痛々しい。
彼は男に近付くと跪く。そして今も血が流れ出ている傷に顔を顰めた。
「大丈夫か? 腕の傷以外で痛む所は?」
「あ、ああ、大丈夫だ。腕以外は大した事ない」
彼の唐突な問いに男は困惑しながらも頷く。
答えを聞いた彼は自分の襟巻を解いた。そして男の腕を掴み、それを包帯のように巻いていく。
「痛いかもしれないが我慢してくれ」
止血する為に少しきつめに巻く。傷口を圧迫され男は苦しそうな声を漏らしたが、言う通りに耐えてくれた。
「――よし、これで大丈夫だ。でも応急手当だから、後で医者にしっかり見て貰えよ」
「えっ……?」
手当が終わりそう告げると、なぜか男は驚愕の表情で彼を凝視していた。
「どうした?」
そう驚かれるような心当たりはない。彼は小首を傾げて尋ねた。
男は暫く口を閉ざしていたが、視線を合わせるとゆっくりと口を開く。
「その、首の痣……」
「首の痣?」
断片的な男の呟きに、右手で自分の首筋に触った。
――彼の首筋の右側には、黒い花のような痣があった。
彼は「ああ、これか」と相槌を打つと、小さく苦笑した。
「生まれ付きあるものだ。変わってるよな」
この痣は昔からあるもので、よく驚かれていた。しかし形が変わっているだけで大した事はなかった筈――だった。
「黒い花の痣だと……!」
しかし男はさらに興奮したようで、大きな声を上げた。
男の変化に彼は眉を顰めた。
「何だと!」
「本当に存在しているとは……」
しかも男の仲間達も驚きを隠せない様子で、満身創痍ながらも立ち上がった。
何が起こったのか分からない。今度は彼が困惑していると、一行の中で一番若い青年が近付いて来た。歩く度に後ろで括った長い髪が揺れる。
どうやらこの青年が男達を纏めているようだった。他の男達よりも身綺麗な着物を着ていて、小綺麗な顔立ちをしている。
長髪の青年は彼の前で立ち止まると、険しい顔で見下ろしてきた。
「見せろ」
そう命令すると有無も言わさず、彼の胸倉を掴む。そしてそのまま彼を引き寄せた。
突然の暴挙に、彼は一瞬抵抗を忘れる。しかしすぐに我に返ると長髪の青年を突き飛ばした。
「何をするんだ!」
距離を置いて腰を小太刀に手を置く。危害を加えてくるものなら全力で応戦するつもりだった。
しかし青年は少し目を眇めただけで、身を翻すと駕籠の前で跪いた。
駕籠は豪奢な造りのもので美しい蒔絵が施されている。
「姫様」
彼に対するよりもずっと穏やかな声色で呼び掛けた。そして彼には聞こえない声で話し始めた。
「――はい、聞いていました」
長髪の青年の声に、駕籠の中から若い女性の声が聞こえてくる。そして内側から引き戸が引かれ、中にいた人物が身に着けている赤い着物が目に入った。
「姫様、無闇に出て来ないでください!」
長髪の青年が焦ったように制止の声を上げた。
「――助けて頂き、有難うございました」
しかしそんな青年に構わず、彼女は彼に感謝の言葉を述べると頭を下げた。
「怪我はしてないか?」
長髪の青年とは違い、慇懃な態度を取る相手に毒気を抜かれる。しかしすぐに彼は穏やかな笑みを浮かべると、優しく尋ねた。
「はい、お陰様で」
「それなら良かった」
彼女の返事に彼はほっと息を吐く。
意図せず見下げる形になったのと影が差している為、彼女の容貌はほんの一部しか窺えない。しかし彼女が本来ならば会話も出来ない程の高貴な身分である事。大層美しい女性である事は十分に分かった。
「お名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」
彼女が可愛らしい声で尋ねてくる。
「俺は……海里だ」
躊躇いながらも彼――海里は自分の名を告げた。
すると彼女は紅の引いた形の良い唇で笑みを浮かべた。
「海里様、ですか。……素敵なお名前ですね」
微笑む彼女に、思わず海里は息を呑んだ。
何とも言えない沈黙が続く。しかし不快ではないのだから不思議だ。
海里がそう思っていると、長髪の青年がわざとらしく咳払いをした。
「――ところで、この近くに村はないか?」
青年が沈黙を断ち切るように問い掛けてくる。
彼女と話していたのが気に食わなかったのだろう、視線から敵意がありありと感じられた。
「この山を下りてすぐにある。小さな村だけどな」
海里も彼の無礼な振る舞いにはあり思うところがある。しかし今ばかりは彼女との間に流れていた微妙な沈黙を破ってくれた事に感謝もした。
「そこに貴方も住んでいるのですか?」
淡々と答える海里に、今度は彼女が尋ねてくる。
「ああ、そうだ。その村の外れに住んでる」
海里の答えに、長髪の青年が不機嫌そうに眉を顰めた。
「何だその口の利き方は。本来ならば、このお方はお前が気軽に話をしていい相手ではないんだぞ」
今度は言葉で釘を刺される。
しかし海里は全く動じた様子を見せなかった。引き下がるように一歩退くと、青年を見た。
「村に行くなら案内するぞ。手負いばかりじゃ心配だろ」
「ふん、余計なお世話だ」
彼の提案に青年は鼻で笑う。そして「お前達、行くぞ!」と仲間の男達に声を掛けた。
男達はよろめきつつ立ち上がる。幸いにも海里が手当した男以外は大した怪我はなかったようで、動くのに支障はなさそうだった。
これなら大丈夫だろう。何よりこれ以上食い下がっても、碌でもない事しか起こらないのは明白だ。そう判断した海里は踵を返しこの場から立ち去ろうとした。
「海里様」
しかし彼女に呼び止められる。
顔だけ振り返ると駕籠は未だに開いたままだった。
「では、また」
「…………」
海里は返事をしようと口を開いた。しかし長髪の青年に目線で牽制され、僅かに頭を下げるに留めた。
引き戸が閉じられ、女性の姿は完全に見えなくなる。そして駕籠は持ち上げられ、一行が立ち去って行った。
海里は暫くその様子を見届けていたが、振り返ると山の奥へと進んで行ったのだった。
最初のコメントを投稿しよう!