山のほこら《後編》

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山のほこら《後編》

 ハッと気付くと、真っ白いカーテンにピントが合った。 「……あれ」  長い長い夢をみていたような気がする。  身体を起こそうとすると、右腕が上手く動かなかった。  そちらに頭を動かすと、袖の下の腕が包帯でグルグル巻きになっているのが見えた。  そして俺は大体のことを察した。あの山で何かがあって、俺はやはり死にかけていたのだと。夢ではなく、現実で。  カーテンが揺れて、その隙間から妻の顔が見える。  家を出てからどれくらい時間が経ったのか定かではないが、何だか久しぶりな気がする。 「ああ! 気が付いたのね!」  妻は泣いていた。しかしまだぼんやりしていて、話す気にもなれなかった。  俺は安心して目を閉じた。 ◇◇◇  妻の話では、雨で地盤が緩んだのか落石が発生し、登山中の俺を直撃したようだ、とのことだった。  登山道から外れた場所で倒れていた俺を発見してくれたひとは『小さな子が助けを呼んでいたが、気付いたときにはいなくなっていた』と言っていたらしい。  退院した俺は、再びあの山に出向こうとした。  『また行くなんて馬鹿げてる』と怒る妻に、あの日に起きたことで覚えている限りの全てを話した。  彼女は黙って『私も行くから』と支度を始める。  事故の影響が残る俺の右腕は、まだきちんと動かない。ひとりで行って、お願いされたあの "ほこらを直して" というものが達成出来るのか分からなかった俺は、正直助かるな、と思った。  妻と山に向かう道中で俺は、彼女の手をそっと握った。『何やってるのよ』と照れる妻が何だかかわいらしかった。  少し前まで、どこに行くにも手を繋いでいたのに、結婚して六年経った今、それがひどく昔のことのように感じた。 「知らなかったわ、山が好きだったなんて」 「好きというほどでもないんだけどね。子供の頃のただの遊び場だよ」  幼い頃、俺にはあの山で出会った "ともだち" がいた。あの子と遊ぶために山に通ったんだ。  そのことを母親に言ったことはあったけれど、その度に変な目で見られるものだから、俺はそのことを誰にも言わなくなった。そしてあの子の存在は、俺の秘密になった。  だが、中学、高校と進学するたびに、学生なりに忙しくなる。俺はいつの間にか、山に行かなくなった。そして、大人になる頃には、全てを忘れてしまっていた。 「ほこらってどこにあるの?」  茶屋を通り過ぎ、山道の入り口に差し掛かると、妻が俺に問いかける。  そう言われてみると、そういうものがどこにあったのか、俺は思い出せなかった。 「……忘れちゃったな。確か、少し登ったところだったと思うんだ。どういう風に壊れているのか分からないから、とにかく様子を見たい」 「そうね。一応、たわしは持ってきたけど」 「たわし?」 「せっかくだから掃除くらいしたいじゃない」  笑って彼女は言う。  母親でさえ、俺の言葉を信じなかった。でも妻は違うようだった。  このひとを選んで良かったなと心から思う。  黙々とふたりで道を進み、時折立ち止まって辺りを見回す。  それを繰り返していると、登山道から少し逸れたところに獣道が続いているのに妻が気付き、声を上げる。 「こういうところじゃなくって?」 「そうかもしれない。いや──ここだよ」  その道には見覚えがあった。  昔はこんなに草が生い茂っていなかった。もっと道のなりをしていたはずだった。何年も、ひとも動物も通っていないのかもしれない。  草を掻き分けようとした俺を彼女が遮って「どんな道か分からないから」と先に行く。  だが、険しい道ということもなく、そのほこらはすぐに見つかった。  山道からほんの少し外れただけで、それはあったのだ。 「そこまで状態は悪くなさそうだな」 「こういうのがほこらっていうのね。石なんだ。木かと思ってた。……何も書いてないけど、ここは何を祀ってるの?」 「たぶん、白蛇だと思う」  山で白い蛇を見た。それ以外にそう思う理由がある。  腕の包帯が取られたあと、俺の腕には何かが巻き付いたような痕が残っていた。痛みもなく数日で消えてしまったが、それはあの時──足を踏み外してどこかに落ちそうになった俺が何かに掴まれていた部分だった。  きっとあの声は、白蛇の化身だった。そんな気がしている。 「そう……。昔、おばあちゃんから聞いたことがあるわ。蛇は神さまの使いだから大事にしろって」  彼女は倒れている壺のようなものを丁寧に起こし、神妙な顔のままほこらの中を見つめながら呟いた。  現実思考の妻がそんな話をするのは意外だった。  汚れているほこらを、妻の言う通り掃除をすることにする。  しかし、せっかく用意したたわしを使うことを彼女は躊躇(ためら)っているようだ。  なぜかと聞くと『こんなものでゴシゴシやっていいのかしら……』と首を傾げていて、俺は笑ってしまう。  記憶の中のあの子はとても優しかった。そんなことでは怒らないに違いない。  持ってきたもので出来る限りの掃除をし、その場を整えた。  手土産に道すがら拾った綺麗な紅葉を置くと、俺と妻は声を揃えてお礼を言う。 「ねぇ……また来ようよ。このお皿もきちんと洗いたいし。お供えは何がいいのか調べるわ」  俺は再び驚いた。  目を見張っていると、妻はゆっくり、そして、はっきりと言葉を続ける。 「信じなくてもいいと言ってたけど……あなたを助けてくれたんだもの。私は信じるわ」と。 ◇◇◇  それを機にどんなに忙しくても、月に一度は山のほこらを訪れるようになった。  俺の右腕は元通りにはならず、重いものは持ちづらかったが、不便は感じなかった。むしろ楽しく思えた。  今までは店に来なかった妻が手伝いに来てくれるようになったからだ。ふたりで考えたメニューは近所でも評判だ。  俺たちは、前よりも話をするようになった。そして、そのうちに妻から子供が出来たと告げられた。  きっと、産まれてくる子供には、俺の身に起こったこの不思議な出来事を繰り返し話すだろう。  大人になることは、忘れて行くことだが、忘れなくてもいいことはあるんだよ、と。  そして、家族みんなで登山をし、あのほこらを訪れることを楽しみにしている。  些細なことが、俺の幸せなのだと思える。  今は、そう思えるんだ。
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