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山のほこら《前編》
いつの間にか、眠ってしまっていた。
辺りは一面、真っ白な濃霧に包まれている。
「明るい……ということは、夜が明けたのか……?」
まさかこんなことになるとは思わず、大した準備もせずに登山に来てしまった。
勢いで家を出た俺の手元には、無駄に大きなリュックと、水筒と、安物の保温シート、そしてリュックの内側のポケットに入れっぱなしになっていた、溶けかけているらしい飴玉一個しかなかった。
別に山をナメていたわけではないが、本来ならば、小さい子供も登るようなハイキング向きの山で迷うはずがなかったのだ。
登山のきっかけは妻とのケンカだった。ひとりになりたかった。
何日か続いた雨がすっかり上がって、綺麗な空を見ていたら、この山が懐かしくなった。
俺は子供の頃にこの山でよく遊んでいた。言うならば歩き慣れた登山道だった。何も考えずにひとりで過ごすにはぴったりだったのだ。
登り始めは何もかもが普通だった。野鳥の声を聞きながら俺はマイペースに歩いていた。
しかしいくら歩いても、俺は山頂にたどり着かなかった。道を間違えたかな、と来た道を戻っても延々と同じ景色が続くだけだった。
そしてハッとした。
見渡すと、周りには人っ子ひとりいなかった。
ついさっきまで下山してくる人々とすれ違い『こんにちは』などと挨拶をしていたのに。
様子がおかしいと気付いた俺は慌ててスマホに手を伸ばしたが、なぜかどこを探してもそれは見当たらなかった。
途中で休憩したときに「山登りに来た」とSNSに投稿したのを最後に、記憶から消えていた。
そうこうしているうちに夜になってしまった。現代人の悪いところで、俺は時計を持っていなかった。スマホがなくなったら、もう時間は分からない。
そういうところは、山をナメていたのかもしれない。
俺は疲弊していた。暗い中を闇雲に歩くほど無駄なことはない、と山道の真ん中に座り込んだ。とにかく明るくなるのをじっと待ちたかった。
秋とはいえ、夜の山中は冷え込んだ。俺は銀色の保温シートを身体に巻き付けて、必死で夜が明けるのを待ち望みながら、状況を整理しようと考えてみた。
一本道を外れるわけもなく、そして道を外れた覚えもない。なぜなのか分からなかった。
そのうちに、いつの間にか眠ってしまっていた、というわけだ。
「あれ……」
眠っている間に雨が降ったのか、右腕のあたりがびっしょりと濡れている。地面を確認しようにも、霧が濃すぎて自分の足すら見えないのだ。手を伸ばすと、うっすらと辺りが湿っているのが分かった。
これだけの霧だ。雨が降らずとも、地面が濡れているのは当然だ、と俺は腕を引っ込める。
こんなものは悪い夢だと思いたかった。だから目を開いたとき、引き続き目の前に広がる非日常に俺は軽く絶望した。
しかし、絶望している場合ではない。俺は帰らなくてはいけないんだ。
先月に仕事を辞め、念願の小さなレストランを開いたばかりなんだ。反対していた妻を説得したのは俺だ。ひと月経たずに店を潰すなんて悔しいじゃないか。
ケンカの原因だってそれだ。妻を見返すためには帰らなくてはいけない。
ふぅ、と息をつくと、水筒を取りだし水を一口飲んだ。
そして唯一持っていた飴玉をビニールから引き剥がして口に放り込むと、立ち上がる。
こういう時は動かずにいる方が得策だということは分かっていたが、これは普通の遭難ではない気がした。だからこれ以上、じっとしてなんかいられない。
一応、山の斜面があるか確認する。その反対側は崖とまではいかないが、ただの雑木林だったはずだ。俺は草や木の根を伝って、歩いてみることにした。
相変わらず、俺の視界に入る全てが真っ白で何も見えない。それに低い山は勾配が緩い。そのせいでだんだん昇っているのか下っているのか分からなくなってくる。
もう、何時間歩いたのか分からない。口の中の飴玉はとっくに溶けてなくなっていた。必死で気を取り直したというのに、また、じんわりと恐怖が俺の心を支配する。
しっかりしなくては──そう思っていたところに、手のひらに山の斜面にあるべきでない感触が現れる。少しがさがさしている、麻の布のような。勘違いかと思ったが、確かに布だ。そして、生き物の温度。
もう一度、その辺りを触れてみる。しかし、そこにあるのは土と、植物だけだ。
背中を得体の知れない感覚が駆け上がる。
俺は恐怖で引きつる喉に唾液を送り込み、口を開いた。
「誰だ?? 誰かいるのか??」
呼びかけても返事はない。
カサカサと草が揺れる音だけが響く。
「誰かいるなら返事してくれ!」
やはり返事はない。
だが、何かはいる。何かが。
俺は必死で呼びかけ続ける。でもその気配は俺の周りを動き回るだけだ。
おかしいじゃないか。まるで、俺から逃げているような、からかわれているような──。
「おい! いい加減にしろよ! 何なんだ!」
怒鳴ってはみるが、一体、誰に対してだろうか。それに日本語が通じるかも分からないのに。
何だか急に身体の力が抜けて、俺は座り込んだ。
分かってはいた。
考えないようにしていただけだ。
もしや俺はおかしなところに迷い込んでしまったんじゃないか? 夏の恐怖特番とかでよく見かけるじゃないか。
あんなもの全く信じていなかったが、実際に昨日、俺はずっと歩き続けていたにもかかわらず、変わらない景色の中にいた。今も三十センチ先も見えないような濃霧の中で、歩き続けている。それでも、あるはずの山道の入り口や、茶屋に辿り着かない。
もう、歩きたくなくなっていた。
一生このままかもしれない。いや、俺の一生はあとどれくらい残っているんだろうか。帰りたい──家に帰りたい。
「……俺、死ぬのかな」
あまりの孤独感に、思わず呟いた。
すると、耳元を冷たい風が吹き抜けた。
「死にたくないの?」
鈴が転がるような声が耳に届いて、俺は飛び上がる。
ぐるりと辺りを見回しても、やはり何も見えない。霧は深かった。
「死にたいわけ……ないだろう……」
俺は質問に答えた。恐怖はどこかに消えていた。
誰だか知らないが、ずっとひとりでいたせいか、話を出来る存在というものに喜びを感じるほどだ。
「このままだと、死んじゃうかもね」
そう言うと、それはクスクスと笑う。
声の感じだと、子供のようだ。どうりですばしっこく動き回るわけだ。
「君はここのことを知ってるのかい?」
「……」
「聞き方を変えよう。俺は山から降りたい。道を知ってるか?」
「うーん」
「何だよ、知ってるんだな?」
まるで近所の子供と話しているような感覚だ。お化けだか何だか知らないが、悪意は感じない。
もしかしたら、恐怖が半端なさすぎて俺の頭はおかしくなっているのかもしれない。
「タダで教えるのもなぁ」
「ケチだな」
「……おじちゃん、アタシのこと怖くないの?」
「おじちゃん?!」
俺はどうでもいいところで愕然とした。『おじちゃん』とその声は言った。
今までそんな風に呼ばれたことは一度もない。
しかし、考えてみれば、三十歳を過ぎればもうおじちゃんなんだろうと思う。それに愕然とした。
「俺……まだオッサンじゃねぇんだけどな……」
「でね、怖くないの?」
その声は、悔し紛れに言った俺の言葉を無視した。
いや、確かにそんなの何でもいい。それどころじゃないんだった。
「怖いような、怖くないような。……あたしってことは、女の子なのか?」
「うーん」
「おいおい、そこは迷うとこじゃないだろ……」
「そうだなぁ……。おじちゃん、大人になったのに逃げなかったから考えてあげようかな」
やはり俺の質問には答えないようだ。そして、何だか偉そうに言うその声。
もしかしたら実は偉いんだろうか。子供の声のようなおばあさんかもしれない。
「家に帰りたいんだ……。妻が待ってる」
深く考えずに口にすると、そう呟いていた。
そう、妻が──彼女が待っている。
今までも、どれだけケンカをしても『お帰りなさい』と言ってくれた。
俺は彼女に会いたいし、謝りたいんだ。
「つま?」
「ええと……。お嫁さんだよ」
「ふーん、お嫁さんがいるんだ」
へーぇ、と続けて呟いたその──女の子らしき声は相変わらずクスクスと笑う。
「わかった! じゃあ」
その言葉が聞こえた途端、にゅっと霧の中から小さな手のひらが突き出し、俺の手を掴んだ。身体中がぞわりとしたが、その触り心地には覚えがあった。さっき触れたのもこの声の主だったのだろう。そして妙に熱を帯びた手に、俺は首を傾げる。
「君の手はずいぶん温かいな」
「おじちゃんが冷たすぎるんだよ。アタシは普通。寒がりだから、ひなたぼっこ大好き」
俺は「そうか……」と呻いた。こちらの実感としては『冷たすぎる』ほど寒くもない。
『普通』より『冷たすぎる』ということは、やはり俺は死んでいるのだろうか。
「どこに行くんだ?」
しかし、小さな手は俺をぐいぐい引っ張るだけで、答えなかった。
つるつるとした肌が心地よい。子供の手はこんなにきめ細かいものなんだろうか。
俺には子供がいない。
それどころか仕事が忙しく、妻との時間もあまり取れなかった。
考えてみれば、長いこと妻とも手を繋いでいない。こんなことになるのなら、もっと一緒にいればよかった。今日だって、素直に彼女を連れてくればよかったのに。
「なぜ、助けてくれるんだ?」
「うーん。運が悪すぎるよね。なんか不憫」
「……うん?」
「わかってないんだもん」
「……何を分かってないのかも、分かっていないよ」
俺は苦笑いを浮かべる。
何もかもを知っているようなその声からしたら、今の俺はとても滑稽に見えるだろう。
「この山で迷子になるひとはあんまりいないけど、そういう人間もたまにいるよ。でも、逃げないひとは初めて」
「……そうだな。怖いといえば怖いんだが、君はあまり怖くない」
「脅かすつもりはないのに、大人はみんな逃げていくんだよ」
「なぜだろう?」
「知ぃーらない! みんな、忘れちゃってるんだよ」
「……忘れてる?」
「今じゃすっかり、忘れられてるの」
そうは言うが、その声はちっとも悲しそうではなかった。
そんなことはどうでもいいと言いたげな。
途端にそれがものすごく神々しいものに感じられた。理由は分からない。だが、考えてみれば、こんな山中に──しかも濃霧の中で子供がひとりでいるわけがいないのだ。
「おじちゃん」
小さな手が、俺の腕を引くのをいったん止めて、改まった様子で問いかけてくる。
なんだろう、と思った俺は顔を上げる。相変わらず、前はよく見えない。しかし、確かにそこに何かはいる。それだけは間違いがなかった。
「お願いがあるの」
「お願い……とは?」
「もし覚えてたらね、ほこらを直して欲しいな。少し崩れちゃってるの」
「……ほこら? どこの?」
「ほらー、やっぱり忘れてる」
声の主は笑っているようだった。実に愉快そうに。
そして、パッと俺の手を離す。
「ここからね、真っ直ぐ行くんだよ? 目を開けないでそのまま。アタシがいいよって言うまで、ぎゅーってつぶっててね」
「真っ直ぐ……だね」
「うん! 帰りたいんでしょ? だったら、ぎゅーって目をつぶって、真ぁーっ直ぐだよ!」
一歩前に出ると、生温かい空気が頬に当たったような気がした。閉じた目を開きたくなる。しかし約束をしたのだ、と俺はそのまま歩き続ける。
不思議なことに、俺は躓くこともなく、歩き続けることが出来た。
不安になって、何度も目を開けそうになったが、その度に『ぎゅーって目をつぶって』というあのかわいらしい声を思い出して、必死で堪える。逆らってはいけないような気がしたからだ。それはただの第六感だった。
──家に帰る、家に帰る──
俺は頭の中で、念仏のように唱える。
何より、家に帰りたい。自分の住まいや妻に対してそんな感情を持っていたことを、俺は初めて知った。
しかし、あんな子供の言うことが正しいのだろうか。本当に信じられるのだろうか──。
そう思った瞬間、俺は足を踏み外した。
「うっわ!!」
突然のことに叫んだ俺は、思わず目を開けてしまった。
しまった、とは思ったが、それはほとんど反射的なもので、どうしようもなかった。
「そっちじゃないよ!!」
間髪入れずにあの声が聞こえる。
見上げると、引き上げられた腕が、滑り落ちそうになる俺の身体を支えている。
藻掻き続け、何をどうやったのか分からないが、気付いたときには平らな場所に四つん這いになっていた。
身体が重くて、動けそうもなかった。それは睡魔と似ている。このまま横たわってしまいたくなった。
「あっちだよ!! あっちだよ!!」
あっちと言われても、それはどっちなのか。ふと地面を見ると、俺の腕の間に白い何かがしゅるしゅると這っているのが見えた。
それは子供の頃にこの山で見た、白い蛇によく似ていた。俺はやっとそれを思い出した。
「昔……見たことがある蛇」
口に出してみると、確かに昔そんなことがあったと思えた。
しかし、それは一瞬のことで、その白い蛇の姿はすぐに見えなくなった。
「目をつぶって! あっちだよ!」
ずいぶんと近い距離であの声がする。俺は慌てて目を閉じ、そしてぐいぐい押された方向へ走り出す。もはや何が何だか分からない。分からないがとにかく前へ進んだ。
そのうちに、きつく目を閉じていたせいか頭がグルグル回るような感覚に捕らわれていく。
いつしか辺りに漂い始めた生臭い臭いが鼻につく。
それでも俺は目を開けなかった──いや、開けたくなかった。
白濁した水のように、俺の意識は不明瞭になっていく。
「もういいよーぉ」
遠くから懐かしい、鈴が転がるような声がする。
「もういいよーぉ」
その呼びかけは、記憶が薄れるほど昔に遊んだかくれんぼの始まりのようだった。
鬼は俺か。
「もういいよーぉ」
見つけなくては。
目を開いて、隠れているともだちを──。
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