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何の約束もしなかったため、会社の受付で追い返されるかと覚悟した。
俺は携帯電話を持っていないので、婚約者の連絡先を知らない。
大きなタブレットの前でどう伝えたらいいものか迷っていたが、自分の名前と、婚約者の姓名を告げ、会いに来たとだけ音声入力した。
不在ならどんな反応が返ってくるのかとずっと待っていたが、タブレットは反応しなかった。次々やってくる人間が所属と名前を告げ、エレベーターに吸い込まれていく。やはりアポイントなしでは入ることもできないのだろうか。
「若司様」
呼ばれて振り返ると、一度顔を合わせたことがある婚約者の秘書が早足で近づいてきた。
「こちらへ。重役用のエレベーターです」
「急に来て、ごめんなさい」
「いえ、私に謝られても……社長がいらっしゃる時で良かったです」
エレベーターは東京の景色を映し出しながら、あっという間に上がっていった。
エレベーターが開いたら廊下だと思っていたが、すぐに大きな机の前に立っている婚約者の姿が見えた。
「調整は?」
婚約者が訊くと、秘書は軽く頭を下げ、エレベーターに一歩下がった。
「大丈夫です。ごゆっくりお過ごし下さい」
秘書を乗せたエレベーターが消えてから、婚約者は俺に近づいてきた。
「驚いたよ。あの部屋から出て、一人でこんな場所にまで来れるなんて思わなかった。身体は、平気?」
「あなた、アルファじゃありませんね」
いきなり確信を持ちだした俺に、婚約者は驚かなかった。
俺が来た理由を分かっていたのだろう。無言で俺の手を引くと、大きなソファまで連れてきた。俺がソファに座ると、自分も俺の隣に腰を下ろした。
「そうだ。俺はベータだよ」
オメガのあのヒート中に、超人的な自制心を持っていたとしても、アルファが耐えるのは難しいだろう。
挿入までは堪えられても、最低、自慰行為をするのではないだろうか。
「医者は、たとえ不能でも難しいって証言していた。裁判で、俺を犯した側が用意した医者だから、本当は分からないけどね」
「まあ、俺も正直しんどかったよ。だからといって、十四歳の子どもを半年入院させるほど犯すクズは、刑務所に入れるべきだと思うよ。気骨のある警察と検事が傷害罪として扱ったにもかかわらず、無罪。馬鹿げた裁判だと思った」
俺の両親も、外聞が悪いから民事では裁判しないと喚いたのも悪い。
「どうしてアルファだって嘘を言っているの?」
俺の質問に、婚約者は微笑んだ。
「最初の判定はアルファだったんだよ。高校二年まで、俺も周りもそれを信じていたんだ。高校生の時、オメガの恋人ができた。すぐに惹かれあってね。運命の番だと互いに信じるほどに、子供で、世間知らずだった。彼女が、アルファの男と知り合って、あっさりフラれた時に告げられた。引力が全然違う。あなたはアルファじゃない。オメガが求める男ではないって」
婚約者が視線をそらし、瞳を空に飛ばす。
「再判定して……自分がベータなことが分かった。成績は悪い方ではなかったんでね。アルファの中にいても、違和感なかったんだ。……かえって、世の中の枠というものは、こんなに馬鹿げているのかと思ったよ。いっそベータで良かったと思った。もうオメガには近づくまい。アルファもオメガもないところで、生きていこうとしたんだけどね」
父親に、ベータであることは隠せ、アルファということにしろと命じられた。彼は淡々と告げた。
「正直社長の座など、どうでも良かったんだが。前に言ったとおり、医学の道へ進むのが夢だったから。……もっと言うなら、オメガ性やアルファ性について、遺伝子の観点から知りたいと思ったんだ。だが父の正妻腹の長男は、アルファだがどうしようもない阿呆でね。このご時世、不祥事を起こしたら一巻の終わりだ。あいつは表沙汰になっていないが、オメガがらみでやらかしている。あの阿呆を社長の座につけることは、正妻がいくら喚こうと一族が反対している。俺は、愛人の立場である母親に泣きつかれてね。オメガの母は、父に依存して生きるしか方法がない。……アルファであるという証明のためにも、オメガの伴侶をもらうべきだと。そして白羽の矢が立ったのが君だ」
婚約者は、さすがに拒絶したと話した。
なぜなら、オメガを娶ったところで、番にはなれないのだ。
伴侶であるオメガは、アルファに発情してしまう。
以前の恋人のように。
結婚したとしても、首輪は残ったままなのだ。
「君は引きこもりだし、誰の目にも触れさせなければいいのだろう、と。……すまない」
俺は首を振った。
それでいいと思っていたのだ。そう思われていたとしても、傷つきはしない。
「君を調べて、こんな目に遭った人ならば、かえって男を拒絶するだろうと。オメガの性を宥めることはできないが、大事にはできるのではないかと思った。結びつかない結婚だってあるだろうと」
婚約者は、そこで俺に顔を戻した。
「だがそれは間違いだったと、この間気がついたよ。あれほど苦しい状態を、解放してくれる相手を、君は探すべきなのではないかと。周囲を恐れて外に出られない君を救うのは、君を番にできるアルファしかいないんだ」
俺は首を振った。
アルファなんか大嫌いだ。運命の番がいたとしても、大嫌いだ。
俺を宥めるように、婚約者は俺の手を握りしめてきた。
「……オメガの彼女をね。憎んだこともあったんだ。なぜ俺じゃなくアルファに惹かれたのだと。そんなに簡単なものか、性というものは、って。それなら心はどこにあるんだと、彼女を、オメガを憎んだよ。だけど、君の状態を見て、思った。あのまま彼女は俺と結婚していたら、もっと苦しんだ。発情を止められず、永遠に番を探し続け、満たされない人生を送らせてしまったかもしれない。別れは必然だったのだと、理解したよ」
彼の瞳はどこまでも優しかった。最初に感じた、オメガに対する嫌悪感は消え、俺をいたわる光だけがそこにはあった。
「婚約を解消して、君にふさわしいアルファを見つけよう。協力する」
俺は首を振り続けた。彼の瞳が、わずかに歪む。
「オメガとベータの結婚は、絶対に完成しないんだ。それにもう、俺も、俺からオメガが去ることに耐えられない」
「世の中の枠なんて、馬鹿げているって言ったじゃないか!」
自分でも、驚くほどの声が出た。
こんなに声帯を震わせたのは、何年ぶりだろう。いきなり飛び出した声に、喉がひりひりと焼きつくのを感じた。
「俺は」
涙が出る。これも久しぶりだった。ずっと泣いていた気がするのに、涙、というものを流したのは久しぶりであることに、俺は内心驚いた。急に緩む涙腺に、目がかゆくなる。
「俺は、俺は、ずっと、苦しんでも、オメガよりも人間でありたい」
かゆくなる目と涙に、俺はごしごしと目を擦った。
ああ。人との会話は、どうしたら伝わるのか、気持ちの伝え方も、忘れてしまった。
どんな言葉をこの口から出せば、相手は分かってくれるのか。
「あんたなら、俺を、人間にしてくれる気が、する」
俺は性を我慢できない。
アルファの匂いに、ふらふらと我を失ってしまうかもしれない。
でも、嫌なんだ。
そんな自分が、嫌なんだ。
引きこもることでしか、自分を自制できなかった。
だが、外に出て生きろというならば。
俺は、アルファとともにではなく、俺を犯さないあんたと生きたい。
そんな思いが、ちゃんと言葉にできたかどうか、分からない。
嗚咽と、涙で、何も言葉にならなかったかもしれない。
婚約者は、言っていた。
「……まるで、産声だな」
だから、何も、伝わらなかったかもしれない。
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