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その1 小麦色の幼妻
23時間58分50秒――。
これが僕に残された命の時間だ。
正確には生命維持装置を動かすために必要なバッテリーの残量だけどね。
北極付近にあるピアリークレーターの縁に設置した太陽光モジュールが、隕石によって破壊されてしまってから一ヶ月。救難信号を発信したけど、地球からの連絡はない。そして運の悪いことに、今は二週間も続く夜のまっただ中だ。
そう、ここは地球じゃない。
地球から38万キロも離れた場所にある月面だ。
嵐の大洋と呼ばれる海領域の中程に、マリウスの丘という場所があって、そこには直径59メートルの縦孔がある。
その深さ50メートルの地下に僕はいる。
そこは巨大な溶岩洞窟が東西に渡って数十キロも連なっていて、この隠れ家のような場所全体に遺跡が見つかったのが今から100年前のことだ。
当時はたくさんの学者がここで調査をしていたけれど、予算がなくなったのか、それとも戦争が起きたのか、忽然といなくなってしまった。
僕はどうしてここにいるのかって?
僕は月で生まれた月の子なんだ。
月での環境に適応した体を持った、デザイナーズベイビーで、悪く言えば人造人間。この遺跡を効率よく調査するために生まれてきた。
地球人が1Gよりも軽い重力の中に長時間とどまっていると、筋肉が衰えたり、骨がもろくなったり、視力が低下しちゃうんだ。
その代わり、僕が地球に行けば身動きできなくなって死ぬだろうと言われている。なぜなら地球は月の6倍も重力があるからね。
僕の仕事はすごいんだ。
この遺跡のどこかに人類の祖が眠っているという話なんだけど、その人類の祖を見つけるのが僕の使命なんだ。
話し相手になってくれるかな? なんて淡い期待もあるけれど、きっと恐ろしく美しいミイラだろう。
もしも人類の祖と出会えるなら、この命を喜んで投げ出してあげる。そのくらい僕は人類の祖と出会いたいんだ。
その人類の祖がどこかに眠っていると描かれている壁画の前に僕はいる。ファラオの壁画を見たことがあるならば、それをもの凄く巨大にした様な物だと想像してくれればいい。
今日もここを出発点にして、僕は遺跡の中をくまなく探すのだ。生存時間が一日を切ったって、誰も悲しむ人はいないし、他にやることがないからね。
「武器よし、食料よし……」
僕は冒険者の様にリュックを担いで、武器を構えた。
武器と言っても廃材の鉄パイプで作った槍だけどね。でもただの鉄じゃないよ。月で取れた鉄なんだ。だからと言って、魔法がかかっているわけでもないけれど、ちょこっと強そうでしょ?
ちょっと待って。どうして武器がいるの? って思った?
まだ地球人の学者がここにたくさん住んでいた頃は、野菜や植物を育てていたんだ。
その中には誰かのペットで食虫植物もいたらしい。
学者がいなくなった時、置き去りにされたんだろうね。普通は枯れる運命だけど、生き残りたいという気持ちが強かったのか、他の植物と交雑に交雑を重ねて、動き回れる食虫植物が生まれたんだ。まあ僕の勝手な想像だけどね。
食虫植物が動き回ったら怖そうなのはわかるけど、武器がいるほど脅威なの? って思うでしょ?
さっきも言ったけど、月の重力は地球の6分の1だから、単純に説明すると、地球の植物は月で育つと6倍の大きさになっちゃうってこと。
しかも収穫の効率を上げるために、遺伝子組み換え技術を使って、通常サイズよりもギリギリ限界まで大きくしていたものだから、小さな食虫植物でもお化けみたいに巨大化していて、襲ってきたら怖いんだ。
じゃあどうやって食虫植物は生きながらえているのかって?
僕みたいな月の人を食べちゃった?
ううん、主食は昆虫だ。
昆虫は地球人にとっても貴重な食料で、この月でも昆虫の養殖がされていたんだ。
宇宙では自給自足が基本だからね。
それが管理されなくなって、重力が6分の1だから……。
もう後はなんとなく想像できるよね。
昆虫は共食いしているみたいだけど、僕のことがご馳走に見えるらしい。
繁殖力がすごい上に、巨大化の遺伝子組み換えもされているから、人間を食べちゃうくらいの大きさなのがわんさかいて危険なんだ。
だから武器は欠かせない。
それは奴らをやっつけると言うよりも、奴らに食われて死ぬ前に、自分にとどめを刺すためだ。
セーフゾーンの居住区から一歩外に出れば、そこは弱肉強食の世界なんだ。
どんな世界なのか説明すると、地球の森の中とほぼ変わらないよ。小川だって流れている。
ただし、巨大化した植物は茂り放題だし、凶暴化した巨大昆虫がうじゃうじゃうごめいている。
月なのに空気や水はどこから来てるのか不思議でしょ?
実はマリウスの丘の縦孔やそれに繋がる溶岩チューブ跡に作られたこの遺跡の周りには、莫大な氷が存在するんだ。
その氷を溶かしたり電気分解をしたりして、水や酸素や燃料を生み出しているんだね。
広大な遺跡内部は地球上と同じ1気圧に保たれているし、天井部分が発光していて、辺りは昼間のように明るいんだ。
月の地下空洞にこんな密林が存在しているなんて、きっと誰もが想像できないことだろう。
けれども、バッテリーが切れて生命維持装置が停止してしまったら、僕はもちろん、みんな一緒にさよならだ。
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