その1 小麦色の幼妻

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 彼女と出会うその時がやってきたのは、僕が強敵の空飛ぶタガメと戦って、弾き飛ばされた時だった。  タガメっていうのは前肢に強大な捕獲肢を持った肉食性の昆虫だ。  本当は水生昆虫だけど、重力が弱いせいか、普通に飛び回っているものだから、とてもやっかいな奴なんだ。  僕ひとりだけのジャンプ力じゃ届かないような場所に叩きつけられて、偶然隠し扉が作動したんだ。  最初は未発見の空洞に転がり落ちて、タガメから逃れられたくらいにしか思っていなかったけれど、たどり着いたその場所が、人感センサーで明かりがついた時、僕は体中が震え上がったんだ。  それは恐怖じゃないよ。  感動の震えだった。  だってついに人類の祖を見つけたんだ!  発見したとき、彼女はただの壁画だった。けれども時間が経つにつれて徐々に盛り上がってきて、3Dプリンターが描き出すかのように、彼女は壁画から生まれ落ちた。  それはもう必死で受け止めたよ。  太古の人類が壁画を描き残したのは、この技術を目の当たりにして、自分たちも永遠の命を欲して真似したのかも知れないね。  彼女には微弱ながら生体反応があったんだ。  つまり生きている!  小麦色の艶めく肌に、青みがかった緑の黒髪。完成された肉体を包み隠すのは、必要最小限の服飾と装身具。  この人はどう見てもミイラじゃない!  目を覚ましていないけれど、脈があった。  そんなときに奴が現れたんだ。  僕を弾き飛ばした空飛ぶタガメだ!  そのとき初めて僕はまだ死ぬわけにはいかないって思ったんだ。  人類の祖である彼女を背後にかばって、僕は武器を身構えた。  けれども守れる自信はない。  昆虫のあの硬い装甲を、廃材で作った槍で貫く事なんてできるだろうか。  果たしてタガメが一直線に襲いかかって、もうダメかと思ったとき、彼女が目を覚ましたんだ。  僕の前に立ちはだかって、タガメの攻撃を受け止めたかと思えば、前足の巨大な爪を掴み上げてひっくり返すと、そのまま地面に叩きつけた。爆薬でも傷がつかない硬い床が大きくへこんでしまうほどの怪力だ。  彼女はほっと胸をなで下ろし、満面の笑みで僕を抱きしめた。  僕が彼女に「助けてくれてありがとう!」ってお礼を言うと、彼女は唇を突き出して、突然口づけを要求してきた。 「ええっ、なになにっ? うああーっ……と、あれ?」  けれども彼女の意識が唐突になくなって、僕の方へとパタリと倒れた。  受け止めた瞬間に感じたんだ。  生きてる気配がしないって――。  まさかと思って脈を見たら、 「はっ、死んでる!」  僕は慌てふためきながら、リュックから自動体外式除細動器を取り出した。そして電極パッドを彼女の胸に貼り付けて、電気ショックを放電する。が、拍動が戻らない。 「せっかくっ、会えたのにっ、こんな結末ってっ、ひどいじゃないかーーーっ」  五度目の電気ショックで彼女は息を吹き返した。  何事もなかったように、むっくりと起き上がっては、僕を見つけてニッタリする。 「わたし、あなたを助けました。今度はあなた、わたしを助けました。つまり二人は結婚する運命なのでーす!」 「ちょっと待って。どういうこと!」 「つまり契りを交わすのでーす!」  僕は彼女の突き出た唇を手で押さえつけ、その身をかわす。 「どうして嫌なの?」 「君のためなら死ぬ覚悟ができてるけれど、契りを交わしたいとか、そうゆうつもりで君を見つけたわけじゃなくて、その……」  彼女は小首をひねりながら少し考えた。そして自分の豊満な胸を見てぽんと手を打つ。 「わかったっ! あなた、幼妻が好みなのねっ!」  ズバッと僕を指さす彼女の体が、見る見るうちに小さくなっていく。  幼く変化した彼女は僕の手を握りしめると、スキップしながら走り出した。 「若妻と結婚! 若妻と結婚!」 「ちょっと、そんな歌やめてよ! 恥ずかしいじゃないかあ!」 「結婚式場はどこですか? 教えてくださぁい!」 「ここは月の遺跡なんだ。結婚式場なんてあるわけないよ」 「ここは、月……?」 「そう、月の遺跡だよ!」  彼女は月という言葉を聞いた途端に何かを思い出して眉をひそめた。  彼女は真剣な面持ちで、空中を手のひらで拭き取るようにさっとなぞった。すると、そこだけがディスプレイのように浮かび上がって、ある数字を映し出した。  19時間48分30秒――。  このカウントダウンは僕に残された命の時間だ。 「そうだよ。それが僕の寿命なんだ。でも君を地球へ送ってあげることくらいならまだできる。だから結婚なんてしてる暇はないよ!」  彼女は一度悲しい顔に沈んだが、すぐににっこりと微笑んだ。 「これはあなただけの寿命じゃありません。人類みんなの寿命でーす!」 「えっ? これはバッテリーが切れるまでのカウントダウンでしょ?」  彼女は首を横に振る。  空中ディスプレイに巨大な星が映し出された。 「この星を見てください。  これは、どこかの星団の恒星系から、はぐれてしまって宇宙を孤独に彷徨っている浮遊惑星です。  これがもうすぐ地球にぶつかるのです!  でも大丈夫。  わたしがなんとかしてあげます!  そのためにわたしは月にいたのです!  わたしを月の裏側まで連れて行ってくれませんか?  そうすればみんなハッピーでーす!」  にわかに信じられない話だけど、僕は不思議と彼女が嘘を言っているようには思えなかった。  月の地上にあるコロニーにたどり着ければ、きっとローバーやリニアバイクがあるはずだ。月の裏側へ行って帰って来られるくらいの酸素はあるだろう。  他にやることがあるわけでもないし、最期に出会えた彼女の願いだ。連れて行くだけ行ってみよう。 「わかった。連れて行ってあげる。だけど危険がいっぱいだよ。覚悟して!」  誰かのために死ねない約束事が、僕にできた瞬間だった。  彼女は袖をまくし上げる振りをして、にかっと笑った。 「わたしが全部やっつけちゃうから大丈夫でーす!」  ぐきゅ~るるる……。  ガッツポーズを構えたままで、彼女の顔が真っ赤になる。 「あはは、その前に腹ごしらえだね!」 「お肉、くださーい!」 「最後の晩餐に食べようと思っていた、とっておきのお肉があるんだ。ご馳走してあげるからついてきて!」  僕は彼女の手を引いて、居住区へと駆け出した。
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