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最初は、さほど気に止めなかったのだ──。
「あら、杉浦さん。こんばんは」
鬱陶しい六月の雨に顔を顰めつつ、歩くこと十五分。ようやく帰り着いたマンションのエントランスで傘の水を払っていると、少し遅れて雨の中からよく知る顔が現れ、俺に笑顔を向けた。
「ああ、こんばんは」
同じ七階に住む広瀬さんの奥さんだ。隣には小学四年生の息子さん。美奈子によると、最近学習塾に通わせ始めたらしいから、あらかたその帰りを迎えに行ったのだろう。
「ゆうとくんも、こんばんは」
「おじちゃん、こんばんは!」
今年三十になったばかりでおじちゃんと呼ばれるのは少々複雑だが、まだティーンにも満たない子供から見れば仕方ない。
それにしても、小学生のうちからこんな時間まで塾とは、最近の子供は大変だ。今日は一時間半ほど残業したから、時刻は午後八時をゆうに回っている。俺が子供の頃は、夜九時過ぎには寝ていた気がするのだが。
「雨、嫌ですねえ」
「梅雨とはいえ、こうも連日だと参りますね」
世間話をしながらエレベーターに乗り込む。
「そういえば杉浦さん。奥さん最近お仕事なさってるんですね」
「ん? いえ、うちのは専業主婦ですよ」
「ああ、そうなんですか。よくお綺麗にして出かけてらっしゃるから、てっきり」
「ああ、それは習い事です。グラスリッツェンっていうガラス工芸の教室に通っているみたいで」
確かに、妻の美奈子は普段化粧っ気もなく、出で立ちもジーパンなどラフなものが多い。誤解は無理もないと思う反面、女性というのは本当に他人をよく見ているものだと感心する。
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