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「習い事ですの! 羨ましいですわ。うちなんてこの子を塾に通わせるので精一杯」
そうは言うものの、まだ小学生の息子さんを塾に通わせて私立中学に進学させる予定でいる広瀬さんの家庭こそ、随分と経済的余裕があるに違いない。駐車場に止められた広瀬家のクラウンマジェスタを思い出しながら、そんなことを思う。
「まあ、うちはまだ子供がいませんからね」
無難に答えたところでエレベーターが停止し、ドアが開いた。軽い挨拶を交わして解散。
取るに足らない話だったのだ。妻の美奈子が外出時にだけ粧し込むのは昔からで、気に止めるようなことではない。この時はそう思い、深く考えることはしなかった。
ところが──。
広瀬さんとの会話から約一週間後。今日は久しぶりに朝から外出で、部下の坂本さんを連れて営業に出ている。
通信会社に務める俺が今扱っているのは、法人向けの携帯電話サービス。夏の新製品の宣伝を兼ね、お得意様企業に挨拶回りだ。
連日降り続いていた雨もようやく止み、薄い雲間から青い空が覗く。そういえば今日から七月だ、もうそろそろ梅雨も明けるだろう。
いくつかの企業を回り終えた頃、腹の虫がぐうと小さく鳴った。腕時計に目をやれば、二本の針はぴったりと重なり真上を指し示している。昼どきの企業訪問は避けたいからちょうどいい。
「そろそろお昼にしようか」
「はい、課長。私もう、おなかペコペコです。実は音が鳴りそうでハラハラしてました」
坂本さんは黒いスーツの腹を擦りながら、ペロッと舌を出した。彼女は美人ではないが、愛嬌のあってなかなか愛らしい。
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