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「ええ」 「ちなみにそれって、何時頃ですか?」  俺の問いかけに対し、広瀬さんはさも不思議そうに首を傾げた。 「時間、ですか? えーっと……、いつも私が下の子を幼稚園に連れていく時間だから、朝の八時半くらいじゃないかしら」  朝の八時半──。  背中をつうっ、と冷たい汗が一筋伝った。グラスリッツェンは午後からだ。そんな早い時間に、一体何処へ出かけているというのだろう。 「なるほど、そうですか」  返した声は、驚くほど小さかったように思う。  別に妻が自由に外出することに不満があるわけではない。ただ──。  このざわざわとした胸騒ぎは何だろう。こちらを一切振り向かない背中を毎晩見つめている時と同じ、得体の知れない不安感は。  本当は、週に何回程度見かけるのかも尋ねたいが、これ以上妙な質問をすれば訝しがられてしまう。 「あの、どうしてそんなことを?」  案の定、広瀬さんにそう聞き返され、俺は慌てて笑顔を作る。 「いえ、実はもうすぐ結婚記念日で。ちょっとしたサプライズをしたいので、妻が家にいない時間を正確に知りたかったんですよ」  完全なる出まかせだが、彼女は目を輝かせた。 「まあ! 素敵な旦那様。うちの主人に爪の垢を煎じて飲ませたいくらい」 「いやいや。普段なにもしてやれてないので、たまには。あ、そろそろ仕事に行かないと。引き止めてしまってすいません。では」  丁度いい引き際を得て、俺は挨拶もそこそこにマンションのエントランスを出た。  今にも雨が降り出しそうな重い雲が、空を、町を鉛い色で覆っていた。
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