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 ドイツ語で『ガラスに傷をつける』という意味のグラスリッツェン。日本ではあまり馴染みのない名称にも関わらず、先生の自宅に併設された工房は、今日も主婦達で賑わっている。  繊細で美しいガラス彫刻でありながら、比較的手軽に入門できる。その上、名前やメッセージ、オリジナルデザインを彫ることもそう難しくないので、贈り物にも最適であり、女性の習い事として人気が高いのだ。  まるでお茶会のように長テーブルを囲み、挨拶程度の他愛もないお喋りをしていると、 「みなさん、こんにちは」  部屋の入口から男性の声。先生だ。主婦達のお喋りはピタリと止み、「こんにちはぁ」と返す。待ってましたとばかりに一斉に送る視線は、なんとなくピンク色。  でも、それも無理もないのかも。スラリと高い身長、トップの長いやわらかそうな癖毛の髪。色白の細面に、知的な眼鏡の奥の静かな切れ長の瞳。高い鼻に、笑みを絶やさない唇。女性にモテないわけがないのだ。  この教室がやけに賑わっているのは、先生のルックスも大いに手伝っているに違いない。わたしをここに誘った友人もその口。今日は子供が風邪を引いてお休みしているけれど。 「ではみなさん。さっそく各自、前回の続きを開始してください」  視線を手元に落とし、マスクとゴーグルを装着。ダイアモンドチップのついたペンでガラスを彫るため、削り粉が飛ぶのだ。  とにかく細かい作業だから、始まればみな口を噤み、教室の中は真剣な空気に包まれる。 「そういえば、今日は真夏日らしいですね」  そこに響く、先生の低くやわらかい声。  ああこの話題、今日二回目だ。あの無機質な白い部屋で交わした会話が、頭の中を過ぎった。
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