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『そっか。今日はどうやら真夏日になるらしいからね』
『真夏日、そうなんですね』
そう返して、涼からランチに誘われた件について考えを巡らせていると、小出先生が突然クスクスと笑い声をあげたのだ。
『美奈ちゃん、普通に話してくれていいんだよ。いい加減、敬語はくすぐったいな』
『ダメです。今は "先生" ですもの』
『美奈ちゃんは昔から、変なところで頑固だよね』
頑固……そうなのかもしれない。だからこそ、わたしは涼との離婚を決めたのだ。
『頑固と言えば……ねえ美奈ちゃん、しつこいようだけど。旦那さんの件、本当にいいの? 僕がちゃんと』
『もう決めたことなので』
このやり取り、これで何回目かしら。何度話そうと、心はもう決まっている。言葉を遮ってはっきりと告げれば、小出先生は諦めたように鼻で息をついた。
わかっている。自分の選択が普通ではないことくらい。そしてその選択自体が、涼への最大の裏切り行為だということも。
それでもいい。赦されなくていい。だって、わたしの願いは──。
「杉浦さん、どうしました?」
頭の上から降ってきたやわらかい声で、はっと我に返る。目の前には、削りかけのロックグラス。わたしの右手は彫刻針を握ったまま、完全に止まっていた。
「……あ、すいません。先生」
「手が止まってましたね。なにか削り方で迷っちゃいました?」
「いえ、ちょっと考え事をしてしまって」
素直にそう答えれば、眼鏡の奥の知性的な瞳が、ふわりと緩やかな弧を描いた。
「集中してくださいね。万が一ガラスが割れでもしたら、綺麗な手に傷がついちゃいますよ」
綺麗な手だなんて。いつもながら、先生は女性の扱いをよくわかっている。
不器用な涼とは大違いね。心の中でそう呟き、小さく笑ってから。
無性に、泣きたくなった。
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