序 章 とある街で 

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序 章 とある街で 

              とある街で   2010年を迎えて半月が経とうかという頃……。  時刻は零時をとうに過ぎており、いつもであれば、  ひとりやふたりはいるはずの通行人も、今はまるで見当たらない。  ――2次会になんか、行かなければ良かったわ。  そんなことを痛烈に感じながら、  澤田友紀は新年会からの家路を急いでいたのである。  そこは小田急線沿線の住宅街。  本当であれば、もう一駅先に住みたかったのだ。  昔から有名な高級住宅地で、  芸能人などもたくさん住んでいるからだった。   しかしそうなると駅から近いアパートなどは、とても手が出なくなる。    急行電車の止まらないこの駅でさえ、  駅から10分で、1Kのアパートが月8万円もした。  去年社会人になったばかりの身分では、それでも結構キツイ金額だ。    そしてもう少し早い時間であれば、  家々の明かりで充分安心して歩けるこの道も、さすがにこの時間となると、  一気に暗く寒々しい感じへと変貌してしまう。  次の角を曲がれば、もう愛すべき我が家が見えるはずだった。  しかしその夜に限って彼女は、  角を曲がった途端、足がすくんで動けなくなる。  ――誰かいる……。  友紀の部屋は2階の端っこにあった。  まさにそのベランダに、ゆっくりと動く人らしき影が目に入ったのだ。  気がつくと友紀は、自分でも驚くような大声を出していた。  そして慌てて携帯電話をバッグから取り出し、  震えながら警察へと電話する。  すると突然、その黒い影がベランダにぶら下がり、  音を立て、落ちていくのが友紀の目に入るのだった。  さらになんとその影が、友紀の目の前へと現れ出たのである。 「キャー!!」  そんな大きな叫び声に、背を向けて走り去る、黒い影……。                   * 「じゃあ間違いなく男性ですね……かなり大柄だったというのは間違いないで  すか?」  近所の交番で見たことのある若い警察官が、  何度も似たようなことを友紀に尋ねる。 「暗かったから……でも、男性ってのは確かです」 「単なる下着泥棒だと思いますが、ストーカーってこともあるし、充分気をつ  けてくださいね」    そう言って警察官は、さっき取り込んだばかりの洗濯物へと目をやった。  そこには色鮮やかな衣服などと一緒に、  艶めかしい下着類が、いまだ洗濯ハンガーに吊るされている。    友紀は慌ててそれらを外し、今さらながらベッドの中へと隠し入れた。    幸い洗濯物に被害はなかったが、  友紀はあまりに無用心だと、きつく注意を受けてはいたのだ。  ――それにしても……あの男、いったいどこのどいつよ!     絶対に許さないんだから!    さっきの恐怖を忘れたように、  友紀はそんなことを思い、窓越しにベランダを睨みつけた。  そしてちょうど同じ頃、  そこからさほど離れていない街の一角で、大きな車が1台停まった。    国道246号を来て二子橋の少し手前、  いつもなら渋滞が当たり前のこの辺りも、  深夜のせいで想像以上に閑散としていた。  8速オートマチックを搭載する高級外車は、  いかにも金を持っていると、かなりの確率で思わせてくれる車であろう。    そんな高級車の右側から降り立ったのは、  やはりそれなりの身分を感じさせる女であった。  リンクスキャットのショートコートを着込み、  続いて運転席から降り立つ男を見守っている。    男は女に目を向けるや否や、名残惜しそうに声を上げるのだった。 「本当に……ここでいいんですか?」 「ええ、今晩は成城に泊まるの……だからここでお別れ……」  ――成城じゃ、ここから結構あるじゃないですか。  脳裏にそんな台詞が浮かび上がるが、  女の微笑を理解したのか、男が声にすることはなかった。 「じゃあ次からはここにメッセージ入れてください。オフィシャルなスケジュ  ールもだいたいアップしてますから……もちろん、多少のことなら貴女の都  合に合わせますし」    だから次に会える時間を作れと、  男はスマートフォン片手に言っているのだった。 「でもわたしにできるかしら?さっき教えていただいたことだってもう忘れそ  うなのに」 「娘さんも同じのをお持ちなんでしょう? だったら尋ねれば簡単に教えてく  れますよ。今時の女子高生なら、フェイスブックなんかお茶のこさいさいに  決まってますから……」 「あら、お茶のこさいさいだなんて懐かしい……先生でもそんな言葉使うんで  すね」  そう言って女は軽い会釈をし、優しい笑顔と共に駅の方へと歩いていく。  女は駅前でタクシーを拾うつもりだった。  帰ろうと思えば、自宅へだってそう大した距離ではない。  しかしそんなことをすれば、  せっかくのいい気分が台なしになるのは目に見えていた。  きっと今頃男は、唇にべっとり付いた紅を拭き取り、  車の中でニンマリとしているのかも知れない。  ずいぶん昔に、一度だけデートをしたことがある男…… ――あの頃は、こんなに立派になるなんて思わなかったわ。  もしそれが分かっていたら、自分はあの頃どうしていたんだろう?  女はそんなことを思いながら、  ちょうどやってきたタクシーへと乗り込む。   そして車が目的地へあと少しという時、  買ったばかりのスマートフォンへ娘からメールが入った。  ――今晩美幸の家に泊まるから。  たった1行だけのそんなメールに……、  ――まったく……こんな時間に言ってきて、    いったいどうしろっていうのかしら!  女は苛立つ気持ちを抑えつつ、  恐々した手つきで返信メールを打ち始めるのだった。
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