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序章 28年前
28年前
「無理しないで、ダメだと思ったら、タクシーで行ったっていいんだから」
ふと、そう言っていた妻の顔が頭を過った。
――何を今さら……分かっていたことじゃないか……。
男はホームに立ち、満員電車のドアが開いた瞬間、そんな事を思う。
今朝、自宅玄関から出て振り返ると、
乳飲み子を抱えた妻の不安そうな顔があった。
その妻の横では、
小学校に上がったばかりの長女が懸命に手を振っている。
そんな家族のためにも、やっと手にした職を失うわけにはいかなかった。
しかしそれでも、入り込む隙間などない混雑ぶりに、
男の決心はほんの少しだけ揺らいでいた。
どうにも、朝から体調が悪いのだ。
息が白いほど冷え込んでいるのに、妙に冷たい汗が出て止まらない。
この時間、ホームに立つのは、実に3ヶ月ぶりのこと。
そして今日は......再就職先への初出勤の日で、
遅刻するわけには絶対にいかない。
――とにかく、乗るんだ……。
最前列にいた中年男が乗り込むのを見て、男はやっとそう決心する。
今、目の前では、すぐ前にいた女子高生が、
細い身体を乗車口右端へと懸命に押し込んでいる。
男は意を決して、女子高生とは反対側に乗り込もうとするのだった。
きっと男ひとりの力であれば、
到底乗り込むことなどできなかったに違いない。
しかしすぐ後にも、必死に乗り込もうとする1人のサラリーマンがいた。
そして乗車口の中央には、中年男が2人腹を突き出し、
もうこれ以上無理だという視線を向けているのだ。
だからそのサラリーマンは、敢えて女子高生の方を避け、
左側にいる男をその身体ごと押し始める。
そうして彼の足が乗車口に乗っかった頃、
男はやっと車中の人となれるのだった。
ところが今度は、そのサラリーマンのせいでドアがなかなか閉まらない。
片側のドアが肩口に当たって、途中でどうしても止まってしまう。
サラリーマンも懸命になって、
その肩を引っ込めようとするのだが、それ以前に手にある鞄は大き過ぎた。
きっと、彼もそのことに気が付いたのだろう。
半開きとなっていたドアが、何度目かの全開となった時……。
「くそっ」
呟くような声と共に、
サラリーマンは車内からホームへと飛び退いた。
……と同時に、男の身体がフッと軽くなる。
「乗れた……」
そんな安堵感に包まれたその瞬間、
ガツン!
鈍い音を身体で感じ、
男の足先は宙へと浮いた。
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