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下校時
通っていた高校の近くには大きくて複雑な形をした池があった。岸がリアス式海岸みたいになっていてそれに合わせて金網の柵が立てられ、周囲をぐるりと回る道も一部が細かいカーブの連続になっている。だから人も車も通りたがらない。
その歩道は車道と同じ方向に伸びていて、両側は池と森に囲まれている場所だった。
僕の通学は自転車だったので走りにくいし、日没後は人通りもなくて怖いから普段は使わない道だった。
その日は例外だった。
と言っても理由はなんてことは無い、観たいテレビがあったからで、近道をするために池の方へ自転車を走らせた。
緩い下り坂をほぼノーブレーキで駆け下りる。それが悪かった。
硬い石礫でも踏んだらしくタイヤがパンクした。バランスを崩し僕は自転車ごと横倒しになった。
肘を少し擦ったが服の上からだったので大した怪我ではなさそうだった。それより自転車が走れなくなったことが死活問題だった。せっかく近道したのに意味が無い。
自転車を押しながら、暗い道を一人で歩く羽目になった。
けれど徒歩でも10分ちょっとで森を抜けられる。腹を括って不気味さと戦うと決めた。
――やがてカーブが連続する池のほとりに差し掛かった。この場所を歩いたのは初めてかもしれない。
冬だからだろうか、虫の声も鳥のさえずりも聞こえない。指先をじわじわと冷やしてくる風が時折地面の落ち葉を掬っては落として音を立てる。
本当に自分の住んでいる町がこの先にあるのか不安になるほどの静謐がこの地を覆い尽くしていた。
テレビが観たいからでは無く、とにかく早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。
ポチャン。
左耳に水音が入ってきた。
音源はもちろん木々に囲まれた大きな池。空に浮かんだ満月があってようやく水面を確認出来るほどに闇に溶け込んでいた。
そこには聞こえた音に一致するであろう波紋が中心辺りに1つできていた。
魚、もしくはカエルが水中から跳ねて着水したのか?いや、1月だからカエルはさすがに冬眠しているだろうか。そもそも本当に魚なのか、何かが上から落ちてきたのかもしれない。でも池の中心の上には何もない。謎は深まるばかり。
……と考えていると頭の奥が温度を失っていく感じがした。それに連動して気づけば全身の肌が粒立った。
余計なことを考えるのはやめよう。
そう思い直して、止まった足を家に向けて動かした。
ドッ、ボン。
今度は重たいものが池に落ちたと思った。
見ない方が幸せだと確信しているのに、己の悪戯な好奇心に抗えない。
柵の隙間、木々の合間から池を覗いた。
さっきよりも大きく円を描く波紋が波打っていた。
この時、音の正体は何かが池に落ちる音だと思った。でも強い風もなく空に鳥も飛んでいない状況で上から物が落ちてくるなんて考えにくい。
……もしかすると池の岸に誰かいるのかもしれない。その誰かが池に物を投げ捨てている、とか?
キョロキョロ辺りに目配せすると……いた。本当に人が上下白の服装で池の淵に立っている。脇には大きな荷物がどっしり地面に置かれていた。性別まではよく分からない。それに体のバランスが、左右で違うような感じがした。
再び恐怖が舞い戻ってきた。だから考えない方が、見ない方が良かったのに、と自分を心のなかで叱責する。
それでも僕は観察を続けた。
その人は足元の大容量の黒いカバンから同じく黒いビニールの様な不透明の小袋を取り出した。片手で持てるくらいのそれを腕の反動をつけて思いっきり投げた。
くるくる回転しながら小袋は池に着水した。ボドンッと低い音を立てて、小袋は沈んでいった。僕が見た波紋とそっくりな模様が水面にできた。
もう間違いなかった。音はその人が何かを捨てた時の音だったのだ。
謎も解けてスッキリしたし、もう早く家に帰ろう。当初の予定を思い出して自転車を引っ張り歩きだそうとした瞬間、背後から車がエンジンを吹かしながら走り去った。
池の淵にいた人がこちらを向いた。
やばい。
暗いから僕のことは見えていないはず、いや車のヘッドライトで照らされて見られたかもしれない。
パンクした自転車を邪魔に感じながらも走り出した。
その時、確認のため池の方を見たら、人の影は消えていた。
やばいやばい!
走れば走るほど、湿度の低い空気が荒い呼吸をより辛くさせる。咽喉の粘膜は乾燥し、どんどん体温が低くなって痛みが生じてくる。
池に沿ってどこまでも続く道。
走っても走っても、森を抜けるどころか池から離れることも出来ない。
いつもだったらとっくに町まで着いてるはずなのに!
自転車を押して走るのが想像の何倍もキツくて寒さも相まって体力的にそろそろ限界が近づいてきた。
ピチャッ。
微かなはずの音が耳元で聞こえたくらいに大きく感じた。
何かが濡れた、水音。
僕の足が止まった。
道の前方に、びしょ濡れの人の足首から下が揃って並んでいた。断面はぐずぐずに腐っていた。
ついに遭遇してしまった。
どうしようもなく立ち尽くしていると、ガシャン!と池を囲う金網の柵が揺れた。
ビクつきつつも左に振り向くと、ちぎれかかった手首と片腕がかろうじて金網に引っかかっていた。
叫び声も出ない僕。
これは夢なんだ、悪夢なんだと言い聞かせるしかできなかった。
ドッス。
背後で重量感のある音が鳴った。
もう何が来ようが関係ない、僕は意を決して勢いよく振り返った。
そこにあったのは、持ち手の付いた黒いカバン。池の淵で人が持っていたあの大きなカバンだった。
それが、動いた。
表面の布地が膨らんだり押されたり凹んだり、明らかに生き物が中にいる動きだった。
カバンのチャックが触ってもいないのにゆっくり、開き始めた。
ジッ……ジジッ……錆び付いたファスナーに引っかかりながら独りでに引っ張られて中身が外に出ようとしている。
僕はぼーっと見るばかり。
心と身体が反比例して、連動して動けなくなっていた。
チャックが、全て開いた。
中から伸びてきたのは1本の腕。その掌が地面に着くと、それが支えとなって脈動しながらカバンの中身が盛り上がってくるのだ。
黒と深緑の血色の悪い肌をした人体の一部が、徐々に、髪があまり残っていない頭が出てきていた。
金縛りにあったのようにピクリとも動かせなかった身体が急に動くようになって、僕は自転車をカバン目掛けて押しやって、その場から走り去った。
後ろからはひたすら水音が聞こえていたが全部無視してがむしゃらに走っていたら、いつの間にか森をぬけていた。
その頃には水音もしなくなっていた。
観たいテレビには、もちろん間に合わなかった。
あまりの形相と汗の量だったから帰宅して早々に親から何があったと聞かれた。
けれど高校生にもなって怖かったから自転車を捨てて走って逃げたなんて言えるはずもなく、パンクした自転車を動かすのが面倒でとりあえず走って帰ったと誤魔化した。
次の日は土曜日だったため親の車で自転車を回収しに行った。
歩道には、車に轢かれたとしか思えないほどボロボロになった僕の自転車だけが残され、辺りには水溜りが何個も残っていた。
この水溜りはその後1ヶ月以上残り続けていた。
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