トイレットペーパーの芯で作ったクチバシつけて

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 日曜日の夕方、香織(かおり)がトイレットペーパーの芯で作ったクチバシをつけて家にやってきた。  なんだか怒っているようだった。「耳が痛いのよ、耳が」と実際的に怒っていた。国民的アニメがバカバカしくもほのぼのとした結末に至るほんのちょい手前だったからもう夜だな夜。そういえば辺りはすっかり暗かった。 「んもうっ、輪ゴムで耳に引っかけてるんだけど、その輪ゴムが痛いわけよ」  やはり怒っていて僕にその怒りをぶつけてるような言い草だった。 「取ればいいこと」  僕は味気なく彼女に解決策を提案した。それで済むこと。はい、おしまい。部屋の中から国民的アニメのエンディング曲が流れてきていた。 「これ取ったらペンギンって誰がわかるっていうの?サザエさんだってパーマ取ったら誰だかわからなくなるのと一緒よ」 「ペンギンだったのかい」  僕は心のなかでトイレットペーパーの芯で作ったクチバシをぱくぱくさせて呟いた。  ていうか、僕はトイレットペーパーの芯が嫌いだ。  とは言っても世の中に「トイレットペーパーの芯が好きだ」という人がいるだろうか。そんな人にこれまで出会ったこともない。ならば声高に「嫌いだ」と言う必要もないのだけれど兎にも角にも僕はトイレットペーパーの芯が嫌いだ。  小学生の頃の話。学校で先生が「明日、丸い筒を持ってきてください」と言った。ラップやアルミホイル、トイレットペーパーなどと具体例を挙げて『丸い筒』と明日の実験の説明をした。  僕には母親はいなくて、父親はいつも仕事という理由でいなかった。必然的に僕は親戚の家に預けられて生活をしていた。夕食後に叔母さんに先生から言われた『丸い筒』の話をして、叔母さんに丸い筒を準備してもらった。  それがトイレットペーパーの芯だった。  もうすっかり寒くなっていた時期で、授業は理科の時間で、先生は「筒を持ってプールに行きます」と言った。  とっくに忘れ去られていたプールは緑色に汚れていた。そのプールで、水中で音がどのように聞こえるかを実験するのだと先生は言った。それぞれ班に分かれて声を出す係を決め、その他の生徒はプールの水面に丸い筒の片方を潜らせ、反対側を耳にあてる。  「わあ、聞こえる」「元気ですかー」「アントニオ猪木がいる」「誰かが「うんこ」って言ってる」「バカじゃないの」と季節外れの緑色したプールで、きゃっきゃと楽しそうに騒ぐクラスメイトを横目に、僕は置いてけぼりにされてる気分だった。プールサイドに寝そべるようにして、耳にあてたトイレットペーパーの芯の片方を水面に近づけようとするがとどかない。当時長めだった髪が垂れて緑色の汚れた水に浸かる。僕以外のクラスメイトはみんな、ラップやアルミホイルの芯らしき長めの丸い筒を持ってきていたが、クラスで僕だけがトイレットペーパーの芯だった。おそらくクラスで母親がいなかったのは僕だけだったのだ。 「というわけで、僕はトイレットペーパーの芯が嫌いなんだ」  僕は玄関先で香織にそう告げた。  金曜日の高校の放課後。進路志望を出してないやつだけ教室に居残りさせられた。僕も香織も最初っから決まっていたように居残った。居残り組は僕と香織以外に二人、佐藤一美と山之内忠敏の計4人だった。僕と香織はクラスではとなりの席で、元はと言えばそれがきっかけで仲良くなった。佐藤と山之内はそんな僕らを挟むように横に一例に並んだ席だった。授業中は先生がいる方向、前を向けという暗黙の了解で一斉に同じ方向に集中する視線の群れを逆らって、僕はいつも横にいる香織を見てた。そしてなんとなくだけど横並びのグルーヴ(のようなもの)も感じてた。 「なにこの進路決まってない横ライン」と佐藤一美がバカにしたように笑った。「笑える」とか言いながら。 「呪われた席順なんだよー」と山之内忠敏は大袈裟に頭を抱えて戯けて見せた。「席替えしてくれよ」と叫んだりして。佐藤も山之内も横並びのグルーヴは感じてはいないらしかった。 「呪われてないわよ。私は決まってるもの」  そう言って香織は進路志望のプリントに何やら書き込んだ。僕と佐藤と山之内はそのプリントを覗き込んだ。そこには誰もが知る心ときめく水族館の名称が書かれていて、理由を書く欄には「ペンギンショーに出るため」とあった。  香織はトイレットペーパーの芯で作ったクチバシを外した。唇のまわりに丸い跡がついていた。僕はトイレットペーパーの芯は嫌いだけれど、トイレットペーパーの芯の丸い跡は悪くないなと思った。 「でも、そっちかあ」  僕は香織に言った。 「驚いた?」  聞かずとも分かることを香織は悪戯に訊いた。  香織は水族館のペンギンショーに出るために、まずはペンギンになろうとしてる。 「ペンギンショーに出たって、出演料はもらえないよ。ペンギンなんだから」と僕が言うと、 「食べることには困らないわ」と香織はご褒美の魚にありついた(てい)で、上を向きもぐもぐと食す真似をしている。彼女の中ではペンギンとなってショーを完璧にこなすイメージができてる様子だ。  進路志望のプリントを書いたものから帰っていいとされた金曜日の放課後。本来なら僕は教室で寝泊りをしてなくちゃならなかったのだけど。  先生はいつのタイミングで香織のプリントを見るだろう。月曜日にはなんて言われるだろう。香織も、僕も。 「ヒデもペンギンになれば」 「やだよ」と即座に断ったが、なれるもんなら香織と二人、というか二匹、いや二羽で。一緒にペンギンショーに出るのも悪くないかなとも思う。  ラップやアルミホイルの芯ではペンギンのクチバシは長すぎる。やはりトイレットペーパーの芯くらいが妥当だ。ペンギンになるのならトイレットペーパーの芯が嫌いだなんて言ってらんない。  香織はプールですいすい泳ぐ。  僕には泳ぎにも問題あり。同時に水泳技術の習得も必須だ。 「トイレットペーパーの芯が嫌いじゃ、無理には勧められないかな」  香織は両手を後ろに回しデニムのポケットからもう一つのクチバシを取り出した。少しへしゃげたクチバシを元の形に戻しながら上目使いで僕の様子を伺っている。  開け放たれた玄関ドア。部屋の中から姉が僕の名を呼んでる。「友だちが来てんの」と返事してその「友だち」という言葉をそこに隠すように玄関ドアを閉めた。  振り返るとそこにペンギンがいた。  白と黒のコントラスト、首元の黄色と橙色のグラデーション。僕は視線をペンギンに合わせるために結果的におじぎした。  おじぎをして気づく。ペンギンの足元に落ちていたクチバシ。香織がトイレットペーパーの芯で作ったもの。僕はそれを拾い、輪ゴムに手をかけ片耳ずつ引っかけてクチバシを装着する。 「似合ってる」と香織が笑う。 「そっちの方こそ本物みたいだ」と僕は笑いかえす。  僕はゆっくりと香織に近づいて、香織のクチバシの先にゆっくりと自分のクチバシをつけた。  香織は少し俯いて、そのまま回れ右をして去っていった。  僕はその後ろ姿をながめてる。  追いかけて香織の手をとって学校まで走り、夜の教室に忍びこんで、無記入のままのプリントに心ときめく水族館の名を書くところを想像してみた。  夜空には幼稚園のお遊戯会の舞台のために色画用紙で作った黄色い月が浮かんでいた。  僕はクチバシを取り手でぱくぱくさせて自分の声を聞く。  二人ぎこちなかった水族館の初デート。  水の中の香織の声を、僕は聞こえないふりしてた。 「そうなんだろ? 」  そして僕は走り出していた。    
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加