お母さん

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四年生の頃、転機が訪れた。その日、学校から帰ってくると、お母さんが背を向けて台所に立っていた。 「お母さん?」 その声に振り向いたお母さんはぐしょぐしょの顔で、「ごめんね」と小さく言った。 「お母さん、人殺しでごめんね。お父さんもいなくならせて、ごめんね。迷惑ばかり掛けて、ごめんね。死んで償うから。殺してしまったあの子に、謝りにいくから。」 そう呟く手には包丁が握られていた。小刻みに震える手は次第に喉に近づいていく、 「やめて!お母さんっ死なないでっっ!」 私の声が響き渡った。こんなに大きな声は初めて出した気がした。お母さんの手が止まって、驚いたように振り向く。そのすきを狙って包丁を奪った。 「死なないで!殺したのはお母さんじゃない!お母さんは悪くない!」 頭の中で赤いランプが点滅していた。それ以上先を言っちゃいけない!なのに、口は止まってくれなかった。 「悪いのは、殺したのはお母さんじゃなくて」 「ソウマなの?」 そう呟いたお母さんは即座にスマホを取りどこかに電話した。ソウマ。数秒後にそれがお父さんになるはずだった人の名前なことを思い出す。電話が繋がった途端、お母さんが怒鳴る。 「あなたがあの子を殺したのね!許さないっ!なんでっ!」 少しして、お母さんが困惑した顔で言った。 「ねぇ、あの子を殺したのはだぁれ?」 私の肩を抑えてそういうお母さんの目はよく見ると血走ってて、怖くて何も言えなかった。お母さんはだんだんあたしを揺らし始めた。頭ががくがくしてもう何がなんだかよく分からなくなった。そして、言ってしまったのだ。 「私」 「え…。」 キョトンとしたお母さんはそのまま固まってしまった。数秒であったろうその時間はひどく長く感じられた。そして、意味を理解したお母さんの目には憎悪と恐怖が浮かび上がった。私の肩から手を離すと、後ずさりしていく。 「お、お母さん?」 私の声にお母さんが叫んだ。 「そんな風に呼ばないで!私は、私はあんたみたいなバケモノのお母さんじゃない!!」 バケモノ。その言葉が胸にしみついた。  それからお母さんは私を避けるようになった。お母さん、と呼ばせてくれなくなった。私を見るお母さんの目がバケモノっと糾弾しているように見えて、私は本当にバケモノなんじゃないか、と思えるようになった。そして、どんなことでもできるようになった。あ母さんに愛されるためなら何でも。  お母さんに包丁を向けたことだって幾度となくあったし、自分だってボロボロになった。お母さんが私を見る目はどんどん恐怖に染まっていく。いつしかそれさえ楽しくなった。お母さんが私を認識してくれるならそれでいいと思った。  お母さんは夜、どこかへ出かけるようになった。また仕事を始めたのかな、とぼんやり思った。お母さんと会える時間が少なくなって、お母さんに愛を伝えることが難しくなったから、私の体はどんどんボロボロになった。先生にばれて、お母さんは呼び出されて、でも来てくれなかった。学校での私の立場が危うくなり始めた。  ある日、学校から帰ってくるとお母さんがいた。あれ、幻かな?と思った時だった。お母さんが口を開いたのだ。 「えみ、お願いがあるの。」 そういった声は震えていて、顔も引きつっていた。えみ。それが私の名前なことに遅れて気づく。名前を呼んでもらえるなんていつぶりだろう? 「なぁに、お母さん?」 「今日お客様が来るの。だけど私は用事があって出かけてしまうから私が帰ってくるまでお客様の相手をしてくれない?」 「うん。いいよ。」 「ただね、そのお客さもの機嫌を悪くさせてはいけないの。だから、お客様の言うこと良く聞いてね。…これは私のためでもあるの。」 「分かった。お客様の言う通りにするんだね。お母さんのためなら、いいよ。」 「ありがとう。じゃあ、行ってきます。」 「行ってらっしゃい。」  八時頃、チャイムが鳴った。お客様は三十代くらい男だった。スーツを着ていていかにもサラリーマンって感じだった。その人はなんだか気持ち悪い笑顔で「こんばんわ」と言った。家の中に案内して、お茶を出す。 「君、名前なんて言うの?何歳?」 「えみって言います。十歳です。」 「そっか。かわいいね。」 お客様のにやにやした顔がひどく不気味だった。  その後、少し話して、お客様に言われて布団をもってきて、部屋を暗くして、それから…。憶えていない。思い出そうとすれば思い出せる気がするけど、思い出したくない。体が拒否する。  気づいたら私は布団の上に一人で寝ていた。髪も顔もべたべたしていた。 唐突に胃の中のものがせり上がってくる。そのまま布団の上に吐き出した。気持ち悪い。苦しい。涙が溢れてきて視界がぼやける。  胃液ばっかりあたりに吐き散らして、もう何もでなくなった頃、部屋の扉が開いた。入ってきたのはお母さんだった。あ母さんは手に何か持っていた。少しして、それがお札なことに気づいた。 「ちゃんとしたのね。ありがとう。」 私にそういったお母さんの顔はよく見えなかったけど、口角が少し上がっている気がした。  私は男の人が怖くなって学校に行けなくなった。もとから行きづらかったのもあるけど。お母さんは何も言わなかった。一日のほとんどはどこかに出かけているようになった。週に二、三回くらい男の人が夜に来た。怖かったけどお母さんのためだと思って言いなりになった。次の日の朝は毎回死ぬんじゃないかってくらい吐き散らして、でも、お母さんに「ありがとう」って言ってもらえればそれでよかった。たとえどんな顔で言われようとも。相変わらず、お母さん、とは呼ばせてくれなかった。  そんな毎日が続いて行った。平穏とは決して言えないけど、お母さんのために生きていく日々。だけど、だけど。    散々吐いてそのまま寝てしまい、起きると夕方だった。玄関にお母さんがいた。最近家に帰ってこなくて久しぶりに会えたお母さんは私を見ると、びくっとし、早足に逃げようとした。大事そうに、お腹を押さえて。背筋が冷たくなる。お母さんの腕をつかみ、そのまま家に連れ込んで後ろ手で玄関の鍵を閉めた。お母さんがおびえたように後ずさる。 「お母さん、それ、何?」 「なっ、何でもいいでしょ!」 上擦った声で叫ぶお母さんの目には涙が浮かんできている。 「お母さんは、それのほうが大切なのね?」 「やめてっ!お母さんなんて呼ばないで!バケモノにそう呼ばれる筋合いはない!それなんて言わないで!大切な、大切な子なんだから!」 急に何かがはじけ飛んだ。お母さんが大切なのは私じゃなくて、お腹の中の奴。それなら。  台所から包丁を持ってくる。お母さんの顔は恐怖で引きつった。 「やっ、やめてっ!やめなさいっ!えみっ!」 声を無視する。ごめん、お母さん。でも私は、”それ”が許せない。 グサッ。勢いよくお母さんのお腹に包丁を差し込む。 「っいやああああああああああああっ!やめてっ!バケモノっっっ!」 お母さんの叫び、いや咆哮が耳に入る。その声を聞いてなぜだか少し楽しくなる。そのまま包丁をザクザクと下へ進め、お母さんのお腹の中に手を突っ込んだ。 「……。」 お母さんはもう叫ばなかった。内臓のグチャッという感触を感じながら”それ”を探す。でも、見つけることはできなかった。死んでも守り続けるくらい大切なのかな?なんだかとっても悲しくて、包丁を握りしめ独りきり泣いた。  それが、昨日のこと。私は、お母さんを殺してしまったんだ…。今更事の重大さに気づく。
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