お母さん

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耳に響く、「バケモノッ」と叫ぶ女の声。手にしみついて離れない、グチャッっという内臓の感触。あたりは真っ赤で、その中心には一人の女が横たわっている。口は恐怖にひきつったままで、目は白目をむいている。ピクリとも、動かない。 「オカアサン?」 呼んでみる。いつもなら返ってくる、「そんな風に呼ばないでっ!あんたの母親なんかじゃないっ!」というヒステリックな叫び声はない。でも、焦がれていた母親らしいほほえみも、優しい声もない。          「オカアさん。おかあさん。…」 しばらく繰り返したけど、飽きたから止めた。なんだ、こんなに呆気ない。焦がれていたシーンはこんなに下らないものだったんだ。なんか、がっかり。私の母親であった人は、“お母さん”と呼ばれるの嫌った。ママも、母さんも。昔は良かったのに。   ピピピッ、っという音で現実に戻される。お母さんが20時55分にセットしていたアラームの音だった。この時間になると、仕事にでかけていく。派手なメイクをして、服を着て。帰ってくるのはたいてい朝方で、そのまますぐに寝てしまう。だから、あまり話すことができなかった。いつものお母さんは大好きで、派手に着飾ったお母さんも好きだったけど、男の人の匂いをさせて帰ってくるお母さんは好きじゃなかった。お母さんもそれを知ってて、昔はすぐにお風呂に入ってくれたけど、今は違う。この人は、変わってしまったから。  「お母さん。」 もう一度呼んで、やっぱり反応がないことを確かめて、動き出すこと決意する。人を殺したら、捕まってしまうから。小さければ捕まらなかったような気もするけど、よくわからない。だから、逃げなくちゃいけないと思う。包丁を放す。ガチャン、と金属の重く高い音が響いた。洗面所に行き手と顔を洗う。手に染み付いた血はなかなか落ちてくれなくて指先や爪の奥に少し残ってしまった。血に染まった服も脱ぐ。少し考えてお母さんの衣装ケースから地味な色のパーカーとジーンズを借りた。お母さんが昔着てたことを思い出す。これが着られるくらい、大きくなったんだな、私。幸い髪には血は飛んでいなかった。私のものが入ってるタンスの一番奥からお年玉を取り出す。今まで貯めていただけあって、十万円近くはある。少し考えて、お母さんが貴重品を入れていた引き出しを漁る。 中には思った通り通帳とカードが入っていた。残高は決して多くはなかったけど、持っていないよりはいいだろう。カードの暗証番号はお母さんの誕生日だったはず。お年玉を折りたたみの財布に移し、カードと一緒にポケットにねじ込む。パーカーの前ポケットの形が少し不格好にはなったがすっぽりと中に入った。不用心であはあるけど荷物は少なくしたいし、第一バックなんて持っていない。母のバックはあるけど、派手なのとか、ブランド物ばっかりで、どれなら私が持っててもおかしくないのかわからない。最後に、お母さんの体の近くに投げ出されたバックの中からスマホを取り出した。充電が100%なのを確認してポケットに入れた。  運動靴を履いて、外に出る。外に出るのは久しぶりだ。駅、どっちだっけ?夜だけどすぐ近くのネオン街の光のおかげでそこまで暗くはなかった。確か、駅はネオン街の先だったはず。光に沿って歩き出す。ネオン街には入らない。昔、お母さんに入ってはいけないって言われたから。あの光に誘われて入ってしまったら私みたいになっちゃうよ、お母さんは言っていた。あの頃は理解できなかったけど、そう言うお母さんの顔があまりにも悲しそうだったからうんっ、と大きく頷いたのを覚えている。    駅の電光掲示板を見ると終電が一本残っていた。行き先は…知らない場所。まあ、いいか。切符を買って改札を通る。行き当たりばったりの旅なんて初めてで少しドキドキする。でも、浮かれてる場合ではない。私は逃げているんだから。丁度良く電車が入ってきて、乗り込む。終電なだけあって人は少なかった。座席に座り、スマホを起動させ、ネットニュースをあさる。多分、まだバレてないことを確認して、電源を切った。電車が動き出す。少し暑いくらいの温度に、眠くなってくる。終点まで、まだ時間はあると思う。少し寝ようと目をつぶると、頭の中を駆け巡りはじめたのは、走馬灯のようなものだった。  
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