思い出を真っ白に染めて

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 古村は今テーブルで妻の美子が作った朝食を食べている所だ。彼女は起きた彼がキッチンに現れると笑顔で「朝はきちんとと食べないと」と言ってきたのだ。まったく最近妙に張り切りやがって、と古村は心の中で舌打ちした。  食べながら古村は考える。いつも寝てばかりいた美子が最近朝食を作り出したのは真弓と別れたあとあたりからだろう。偶然とも思えない。もしかして自分と真弓の関係に気付いていたのだろうか。しかし今まで美子はそんなそぶりなどおくびにも出すことはなかった。しかし気付いてたとしたら三年の間美子は自分の裏切りに耐えていたとでもいうのだろうか。彼はテーブルの向かいで朝食を食べている民子を見た。美子はそんな彼の視線に気づくとあっとなにかを思い出したように口を開け、そして喋ってきた。 「ねぇ、やっぱり私もニューヨーク行ったほうがいいかしら?」 「えっ?」  古村は妻の意外は発言に思わず声を上げた。 「イヤなの?」 「いや、今になって何を言うのかとビックリしただけだ。ずっと言ってるようにニューヨークには一年、長くても二年もいないんだ。それに君は知り合いもいない所に一年も暮らすなんて耐えられないって言ってたじゃないか。それを今になって……」 「うん、だけど最近私なんかこう思うようになったの。やっぱり二人で一緒にいた方がいいって。絆なんて離れていたらすぐに切れちゃうんじゃないかって……」  古村は妻が自分に対して下手な当て擦りをしているように感じて気分が悪くなった。当て擦りなんかしないでハッキリ自分に言えば良いのだ。あなたが浮気をしているのはバレてますよと。なんだか食事まで不味くなってきて彼は妻に向かってもう時間だと言うとさっさと残りの物を無理矢理腹に詰め込んで慌てたふりをして玄関に向かっていった。するとその彼の背中に向かって美子がまた聞いてきた。 「そう言えばあのマフラー本当になくしちゃったの?」 「何度も風で飛ばされたって言ってるじゃないか。たしかに俺が悪かったけどいつまでも持ち出すのはやめてくれよ」  マンションから外に出た古村はさっきの妻との会話を思い返しマズいことをしたと思った。マフラーの事であんなつっけんどんな態度を取るべきではなかったと反省した。あれでは何か後ろめたいものがあるのだと美子に感づかれてしまうかもしれない。だけど真弓はあれからあのマフラーをどうしたのだろうか。古村は首の辺りが冷えてきたように感じて、思わず首に手を当てた。首にはちゃんと別のマフラーがある。だがそれでもこの妙な冷えはおさまらない。真弓にマフラーを奪われたあの夕方からずっとこの冷えは続いている。  もうじきニューヨークに転勤する古村には会社に来ても特に何もする事はなかった。彼が今やっている事は自分の後任に配属された新村への業務の引き継ぎだ。社員たちは初めて古村の異動と新村の着任を知らされた時その名前のあまりの出来過ぎさに笑ったものだ。誰かが冗談で「古きは去り新しきもの来たる」と言っていたが、この新任の新村という人間は四十過ぎだが見方によっては二十代にも見える若々しいガタイのいい男だったので皆大爆笑していた。  真弓とはあれから業務以外で大した会話はなかった。勿論LINEやメールの類の会話もない。たまたま誰もいないところですれ違っても軽く挨拶をして終わりだ。当然彼女に奪われたマフラーについて聞くことなどできない。  しかし真弓は時折新しい上司となった新村に報告に来たついでに古村も交えて軽い雑談をすることがあった。話の中で新村は自分は大学時代はラグビーのエースストライカーで、大学の対抗戦で決勝のトライを決めてテレビ局のインタビューを受けたことがあると自慢げに話した。すると真弓がそれに反応してもしかして新村さん私と同じ大学ですかと質問したが、その途端新村は真弓に対して「なんだ羽山、お前後輩か」と今までさん付けで敬語だったのに、いきなり呼び捨てのタメ口で呼び出した。古村はまったく体育会系はこれだからと呆れ、真弓も困ったように笑っていたが、だけど満更でもないような感じだった。真弓は何度かちらりと古村を見たが、彼女の視線には特に何も含むところはなく、いたって自然な態度に見えた。  古村のニューヨーク転勤が近づいてきたのでみんなで古村のために壮行会をやろうという話になった。古村は別にいいよ、たった一年しか向こうにいないんだぜと断ったが、部下たちと何故か後任の新村がしつこく説得してきたので、古村はとうとう折れて壮行会に向かう事になった。新村は説得している時何度も羽山は必ず出席させると言っていたが、古村は真弓の名前を出されるたびに心が痛んだ。  そして壮行会の日取りが決定し、古村に出席者の名簿が配られたが、新村に頼まれでもしたのだろうか真弓も出席者に入っていた。オフィスの連中はほとんど出席で、新村はやはり先輩の人徳ですね、と能天気にガハハと笑っていた。  壮行会は居酒屋で行われた。広い場所を選んで予約したつもりだったが、それでも人数が多く、座席を決めるのにひどく苦労した。幹事役は何故か新しく入ったばかりの新村で僕は宴会部長ですからこういう事は任せてくださいとハキハキして仕切り出した。まず上座に今回の主役の古村を座らせ、そして隣に支社長に座らせた。そして上長とキャリアのある連中から順に席を埋めていったが真弓は新村の隣だった。  二人を見た古村は舌打ちしそうになった。結局新村の奴は俺の壮行会にかこつけて真弓と仲良くなりたいだけじゃないか。大体その女は元は俺の女だったんだぞ。彼は腹立ち紛れに新村と真弓を軽く睨みつけてやった。しきし二人はそんな彼の視線にまったく気づかずに、あの食堂のおばさんまだいるのとか、あの今テレビに出まくってる教授が昔全然人気なくて講義俺一人しか出席してなかったとか。二人の出身大学の話に花を咲かせていた。真弓はもう自分のことなどとうに過去の思い出なのだろうか。別れを告げられてからさっさと自分とのことなどゴミ箱にでも捨てて新しい出会いを探しているのだろうか。ここまで考えて古村は馬鹿げたことを考えるなと自分を責めた。真弓がどうしようがお前の知ったことじゃない。彼女には彼女の生き方があるしそれに対してとやかく言うのは筋違いだ。大体彼女に別れを切り出したのはお前じゃないか。しかしこう自分を責めて真弓を忘れようとしてもいつも真弓に戻ってしまう。古村は男ってのはホントに未練がましい動物だなとつくづく思った。  ふと隣にいた支社長が酔っ払ったようで古村君より若い女の子と話がしたいと言い張って若手の社員がいる座席に移動してしまった。そうして古村の隣の席は空になってしまったが、その時新村が隣の席の真弓に向かって古村さんの隣に移動しろと命令口調で言った。すると近くにいた連中が真弓をやんややんやと囃し立て古村の隣に座れと促した。真弓は困ったように立ち上がるとゆっくりと古村の所に近づいた。そしてそのクッキリとした目で古村を見て「座っていいですか?」と聞いてきた。古村はああいいよと返事をして真弓が座りやすいように少し体を離した。  古村の隣に真弓が座ると新村が音頭をとって「ご両人!積もる話もたくさんあるでしょう!さぁどうぞ!時間はまだ長いですよ!」と古村と真弓を囃し立てた。それに煽られてみんなが一斉に二人を囃し立てる。古村はなんだか気まずくなって思わず真弓を見つめた。彼女はいつも通りだった。愛想笑いをこちらに向かって浮かべまるで他人事のように「困りましたね」とか言ってくる。まだ二人の関係が続いていた頃、今日と同じような事になった事が何回かあった。その時真弓は古村に向かって悪戯っぽく笑ったものだ。しかし今日の彼女は貼り付いたようなよそ行きの愛想笑いを浮かべるだけだ。古村は皆に気取られないように自分も愛想笑いを浮かべて真弓に仕事の思い出をした。真弓は彼の言葉に愛想笑いを浮かべながら答える。こうして古村と真弓はひたすらよそ行きの会話を続けていだが、古村にとってそれは苦痛以外の何者でもなかった。真弓と話しているうちに彼女への未練が頭をもたげてきて目頭が熱くなってしまう。しかし目の前の真弓はもう無表情としか形容できない愛想笑いを浮かべるだけだ。  結局その後も真弓はずっと古村の隣に座っていて、二人は時折味気ない会話を続けたが、やがて壮行会が終わりに近づくと支社長や新村を始めとした役職持ちと真弓も含めた代表社員の古村への励ましの言葉が述べられ、最後にそれに応えた社員一同への古村の締めの挨拶で壮行会は終わった。  壮行会から三日たち、いよいよ最終出社日が明日となったその日、古村はオフィスの廊下で向いから歩いてくる真弓を見た。彼はいつも通り挨拶をしてそのまま通り過ぎようとしたが、去ろうとする彼を真弓が呼び止めた。古村は昨日の壮行会のことだろうと思い彼女を見て、ハッとなった。真弓が思い詰めたようなそんな表情で自分を見つめていたからである。彼女は古村を見つめたまま、小さな声で彼に向かってこう言った。 「あの……あれなんですけど二丁目の郵便局に預けています。差出人は私です」  真弓はそれだけ言うとさっと足早に去ってしまった。  今頃になってマフラーを返してくるとはどういう事なのだろうか。別にわざわざ返さなくてもいいむしろ捨ててもらって全然構わないのに。古村は結局その日一日中郵便局までマフラーを取りに行くべきか悩んだ。しかしそう悩んでいるうちに時間が過ぎてしまった。  結局古村はその翌日の最終出勤日の昼休みに郵便局までマフラーを取りに行った。局員から自分の名前と真弓の名前が書かれた郵便物を受け取るとすぐに手持ちのリュックに入れた。昼休みからオフィスに戻る時古村は真弓と出会したが、彼女は古村を見るといつも通り愛想笑いを浮かべて彼に挨拶してそのまま歩いていこうとした。古村はその真弓を呼び止めて郵便局にマフラーを取りに行ったことを報告したが、彼女はそれを聞いてもよかったといつも通りの愛想笑いを浮かべるだけだった。  別れの挨拶を終えて会社から出た古村は翌日のニューヨーク行きのための準備をするためまっすぐ家に戻った。その帰宅の電車の中で彼は何度も真由美のことを考え早く自分も振り切って未来に進まなければと改めて決意した。自分は何度も真弓を振り切ろうとして挫折してきた。だがもういい加減に決意しなければ何もかもが前に進めなくなる。  彼はリュックの中から真弓が自分宛に送った郵便物を取り出した。その感触からして明らかにあのマフラーだ。彼は再びあの時の事を思い出して真弓が憎くなった。どうしてあの時自分から奪ったマフラーを今返すのか。あのマフラーの事であれから自分が妻に悟られないようにどれだけ気を遣ったかわかっているのか。自分との思い出のつもりならずっと持ってればいいし、捨てたかったら勝手に捨てればいいのだ。ひょっとしたらこれは、あなたのことはもう振り切ったから安心してくれとか言うことなのだろうか。だとしたら余計なことだ。こういう余計な事をするから自分はいつまでも未練に囚われるのだ。古村は郵便物を手に持ったまま電車から降りるとまっすぐ駅の改札外のゴミ箱に向かい郵便物を捨てようとした。だが捨てることは出来なかった。これを捨てたら彼女との思い出自体を捨てる事になってしまう事を恐れた。馬鹿げたことだと古村は思った。さっき彼女を振り切ると決めたばかりなのにどうしてそれをためらうのか。結局古村は再び郵便物をリュックに入れて家に帰った。  出発の当日、部屋の外からの妻の美子のもう準備できたとの呼びかけに古村はあいよと答えた。それから彼は部屋を出ようとしたがその時バッグの中に真弓の郵便物を入れたままだったのを思い出した。古村はすぐさまリュックから郵便物を取り出してスマホや本などが入っている手持ちのバッグに放り込んだ。 「やっぱり私も行くべきだったのかしらね」  とタクシーの中で美子が古村に言った。 「急にお前も連れてゆくなんて言っても会社が対応できないよ。それにお前寒いの苦手だろ?今の時期ニューヨークは氷点下超えるぜ」 「うわぁ、寒そ!あなた凍死だけはしないでね」 「バカ!暖房設備ぐらい揃えてるに決まってるだろ!」  しばらく会えなくなるのにもかかわらず明るく振る舞っている美子を見ていると古村は改めて彼女を騙し続けていた事を申し訳なく思った。いや、彼女だけではない。自分は真弓さえある意味騙し続けていたのだ。いざとなったら元の巣に逃げるくせに彼女を失いたくないあまり甘い言葉で彼女をひたすら繋ぎ止めていたのだ。しかしもうそれは終わりだ。美子が古村の膝を叩いた。 「あの、ニューヨーク着いたら絶対にメール送ってね。どれだけ料金がかかっても絶対に送るのよ」  古村は笑顔で彼女に向かって「ああ」と応えた。  空港に着くといきなり自分の名前が入った派手な横断幕が目に着いたので古村は妻とともに慌てて駆けつけた。会社の連中がわざわざ自分の見送りに来てくれたのだ。その中には当然真弓もいた。 「おいおい、こりゃなんだよ。完全に羞恥プレイがないかよ!誰だよこんな事考えたのは!」  古村が本気で困ってこう言うとその姿がおかしいようでみんな大爆笑した。 「新村さんですよ!古村さんを派手に送り出してやろうとか言い出して!私たちは止めようとしたんですけど!」  古村は新村の方を向いたがその隣には真弓がいた。彼女も新村と一緒に笑っていた。 「まぁ、いいじゃない!皆さんにこんなに慕われて!あっ、はじめまして私古村の妻の美子と申します!」  と美子が古村と会社の連中の間に入って挨拶をしはじめた。古村は真弓の態度が気になってそれとなく彼女を見たが、真弓は相変わらず笑ったままだった。  ひとしきり皆に別れを告げると古村は保安検査をクリアして搭乗ゲートへと向かった。ゲート内はまばらで取り付けられているコンセントでスマホの充電をしているものがちらほらいる程度だった。まだ時間にはなっていないようだ。  そこでしばらく座っていると再び真弓の顔が思い浮かんできた。これで彼女ともしばらくは会えなくなる。その離れた期間で彼女との事を過去の思い出にできるだろうか。いやしなくてはならないのだ。大体おかしいだろう。振られた立場の真弓が自分との事を完全に振り切っているのに振った立場の自分がいつまでも未練に囚われるなんて。今自分にとって必要なのは冷静に過去を振り返る勇気だ。  古村はこう決心するとバッグを開けて中の郵便物を取り出した。郵便物には真弓の女性にしてはやや固い文字で郵便局の住所と古村の名前と、そして真弓本人の名前が記されている。古村は思い切って郵便物を開けた。  中からクリーニングに出したのであろうか微かな香りとともにビニールに包まれたあのマフラーが現れた。古村はしばらくそのままマフラーを眺めていたが、ふとマフラーのしたに便箋みたいなものがあることに気づいた。よく見るとそこに文字が書いてあり、それは明らかに真弓から自分へ宛てた文章だった。古村はすぐさまビニールを引きちぎり中の便箋を取り出して読みはじめた。 古村さんへ マフラーお返しします。あの時取り乱したりして本当にごめんなさい。自分でもあの時混乱していて訳がわからなくなってたんです。ホントバカですよね。普段あんなに私はいつ別れても大丈夫だなんて言ってたくせに。もしかしたら私別れるその瞬間まで自分でもあなたに対する思いを測れなかったのかもしれなません。今、冷静に考えてみると最後の最後でやっとあなたが私にとってどれだけ大事な人だったかわかった気がするのです。あとあなたに対して冷たい態度を取り続けて本当にごめんなさい。別れたからってあんなにそっけない態度をとる必要なんてなかったのに自分でも愚かだったと反省しています。自分でもあなたに悟られないように必死で普段の態度であなたに接していたつもりですが、知らず知らずのうちに態度に出てしまっていたようです。でもそうしないと私が持たなかった。そうしないと心のダムが溢れて決壊しちゃうから。ニューヨークでも頑張ってください。私もこの東京で頑張るつもりです。そしていつかあなたの事を全て受け入れて、今度会った時はもっと自然にあなたに向き合えるようになって見せます。今まで楽しい思い出ありがとう。from羽山真弓』 「たく、女ってやつはわかんねえよな」  手紙を読み終えた古村は我知らずこう呟いた。そして彼は突然号泣してしまった。もう涙が溢れて止まらなくなった。泣いていると真弓との日々が次から次へと浮かんでくる。最後の最後でこんなことされちゃ忘れようたって忘れられるはずがないじゃないか!古村は気のすむまで泣き尽くすとマフラーをバッグにしまい、そして便箋を持ったままトイレに向かった。  搭乗しても古村はまだ便箋を握りしめていた。もう便箋は彼の涙でそこら中にシミができていた。彼は手紙を読んで真弓が自分を忘れるどころか自分と同じように過去を乗り越えようとしている事を知って改めて自分も彼女を受け入れて、今度彼女と再会したら自然に彼女に向き合えるようになろうと思った。  ニューヨークには近々大雪が降るらしい。雪のニューヨークは映像はテレビや現地で何度も見たことがある。雪はあの大都市を一面の雪景色に変えていた。あの白い雪のように自分は生まれ変われるのだろうか。古村は雪に映し出された真弓の姿を思い浮かてこう思う。彼女との思い出も白い雪のように真っ白に染められるだろうか。 《完》
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