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クルーズ船『大日』・屋上デッキ
階段を登り切ると窓からデッキが見える。そこには優雅にデッキチェアに座る遙香と隣に立つ空、そして目にも留まらぬ速さで仏眼に殴られている悠輝の姿があった。
「おかーさん!」
母を見つけた紫織と犬達が駆け寄る。
「あ、紫織ッ。ごめんね、恐い思いをさせて。
それにあんたたちも、よく紫織を守ってくれたわ」
抱きつく紫織を受け止めつつ、空いた手で紫織の向かい側から頭を出す政宗と、後ろ脚で立ち上がりデッキチェアによじ登ろうとしている梵天丸の頭を交互に撫でる。
「お母さん」
朱理と刹那も紫織達に追いついた。
「二人とも心配かけたわね、それからありがとう」
母がこんなに素直に礼を言うなんて珍しい。
「悪かったわね、お礼も満足に言えない母親で」
しまった!
思考防御を忘れていた。海にさえ通じた精神防御だが、母にどれだけ対抗できるかは未知数だ。
「やるだけムダよ」
朱理は肩を落とした。暴走した紫織以上に母は手強い。
「おかーさん、ジイジが……」
紫織はそこで言い淀んだ。
「ユーレイになっちゃった!」
彼女なりに現在の法眼の様子を表現している。遙香は紫織の言葉を聞いて溜息を吐いた。
「だから言ったでしょ? 『爺ちゃんは殺されたぐらいじゃ死なない』って。まったく、慧眼おじさんに取憑いて蘇るなんて……ホンットに仏眼オジサンは使えないわね!」
「誰が取憑いておるんだッ? 憑依と言わんか、憑依と」
真打ち登場とは言いがたい、中途半端なタイミングで慧眼と法眼が現われた。
「あ、そうだ。刹那、アイスティーのお替わりと何かスイーツを持ってきて」
遙香は父親達を無視して、刹那に雑用を頼んだ。
「なんであたしがッ? 操っている信者に持ってこさせればいいじゃないですか!」
「かわいい義妹に持ってきて欲しいんじゃない」
「ダレが義妹ですかッ、ダレが!」
「何の真似だッ?」
緊張感の欠片もない会話に怒鳴り声が割り込む。視線を向けると仏眼がデッキに倒れた悠輝の頭を踏みつけていた。
「家族が殺されかけているのに、何が楽しいッ?」
「御前が言うか?」
慧眼に憑依した法眼が呆れる。
「オジサンは悠輝をボコるのは初めてかも知れないけど、あたしたちは悠輝がオジサンと似た顔をした爺ちゃんに、フルボッコにされているのを飽きるほど見てるのよ」
遙香は冷めた視線を仏眼に向ける。
「そんなことが……」
「じゃあ覗いてみればいいじゃない? 悠輝を遮断しながらでも、他のことに異能力を使えるんでしょ。あたしと慧眼おじさんはムリでも、紫織や刹那、がんばれば朱理だって覗けるかもね」
「もういいッ」
遙香の言い方が気に障ったのか、仏眼は吐き捨てるように言うと、悠輝の頭を鷲掴みにして持ち上げる。露わになった悠輝の顔は血だらけだ。しかし戌亥寺に居る時の朝はいつもこんな感じなので、流石の朱理もこれぐらいでは動じない。
「こいつが殺されるのを、そこで見ていろ!」
空は不安げな視線を遙香たちに向ける。
「やれるもんなら、やってみなさいよ」
挑発的な口調で遙香が言う。多少、朱理は心配になってきた。
「あ、悠輝、あんたのオジサン、朱理に腹パンしたあげく、顔を蹴飛ばして奥歯を折ったからね。見れば判るけど右頬が腫れてるわ。これじゃ仕事に支障が出るわねぇ、ファンも悲しむわ」
「そんなことを伝えてどうなる? こいつはもう……」
「テメェ……人の姪に何しやがる!」
ダラリと垂れていたはずの悠輝の両腕に力が入り、頭を鷲掴みにしていてる仏眼の親指と小指を握る。
「ハッ」
悠輝は裂帛の気合いと共に、仏眼の指を捻り上げる。
「ウッ」
仏眼の口から呻き声が漏れた。
悠輝は身体が自由になると、そのまま後頭部を仏眼の顔面に叩き付ける。
「グッ」
仏眼の前歯が三本折れた。それに彼の右手の親指と小指もあらぬ方向を向いている。
悠輝はさらに追い打ちをかけようと仏眼との間合を詰める。
「ふァッ!」
仏眼が法力を放つ。前歯が折れたせいで気の抜けた気合いだが、それでも躱しきれなかった悠輝は吹き飛ばされた。しかし受け身を取り、素早く体勢を立て直すと再び間合を詰める。
「オン・ソふヤ・ふぁラバひゃ・ソふぁカ」
仏眼が不明瞭な日光菩薩真言を唱える。
「あッ」
眩い光りで悠輝だけではなく、朱理たちの視界まで奪う。
「グフッ」
光りが消えると誰かが声を上げた。
だがそれは悠輝の声では無い。
「テメェの歯、一本残らず叩き折ってやる!」
今度の声は悠輝だ。何とか眼を凝らすと、どうやら悠輝は馬乗りになり、仏眼の顔を殴りまくっている。
仏眼の呪は悠輝には通用しなかった。当然だ、視界を奪われる戦いなど幾度も法眼との親子喧嘩で経験しており、疾うに対策は出来ている。それどころか、悠輝自身も摩利支天真言を使った眩ましが得意で、海との戦いでも使用した。
「さすが真性ニーコンね、朱理の事となると実力以上の力を発揮するわ。刹那もそれぐらい愛してもらえるといいわね?」
「別にイイです!」
母にも仏眼の光りは効いていない、これも当然か。しかし、刹那には効いているらしく、目をしょぼしょぼさせながら反発している。
「御前の息子は中々やるな」
「いや、全く駄目だ。朱理ちゃんの事を知るまで、一方的に仏眼に殴られおって……未熟もいいところだ」
法眼は言うまでも無いが、慧眼にも仏眼の呪の光は通用していない。二人は弟と息子、或いは弟と甥の戦いを見ながら意見交換をしている。この様子を異能の無い人間が見れば、老人の独り言と思うだろう。
「少しは息子を褒めてやれ」
「兄さんが言うか? それにしても、仏眼は成長せんな」
「それには同感だ。幾ら法力を磨いても、肉体を鍛えても、根本がなっておらん」
「それ、どういうことですか?」
二人の言葉が気になり、思わず朱理は割り込んでしまった。
「仏眼……さんは……」
「あいつは朱理ちゃんより未熟者だ、だから呼び捨てでいいよ」
朱理が仏眼の敬称で悩んでいることに気付いた法眼が、満面の笑みで言う。
「はい……仏眼は何がダメなんですか? あれだけ強い異能力があって、武術の腕も相当なのに」
「直向きで健気な子だな」
朱理の問いを聞いて、慧眼はその姿勢に感心している。
「俺の孫だからな」
法眼は得意気だ。
「一喜の奴はまだ子供がおらんからな……」
「あの、それで仏眼は?」
話が逸れ続けそうなので、朱理は早めに軌道修正した。
「ああ、そうそう、あいつは傲慢すぎるんだよ」
「故に、独りよがりの修業をして、独りよがりの強さを身に付けた」
「まぁ、解りやすく言うと、昨日の朝までの紫織ちゃんみたいなものだね」
いくらなんでも、それは言い過ぎじゃ……
実際に戦ったから判る、仏眼は朱理がどう足掻いても勝ち目はない相手だ。
「いいや、変わらんさ、根本は同じだよ。だから小学生で気付いた、紫織ちゃんの方が偉い!」
唐突に名前を呼ばれ何事かと、紫織がこちらを向く。
「それに、今は勝ち目が無くても、近い内に朱理ちゃんは……」
「ノふマふ・しゃふマふ……」
不明瞭な言葉が聞こえ、法眼は言葉を止めた。視線を向けると仏眼が、何とか両腕で悠輝の拳を防いで、真言を唱えようとしている。
悠輝が飛び上がる。
「タァッ」
鳩尾を両足の踵で刳るように踏みつける。
「グッ」
仏眼が息を詰まらせ真言が途切れる。
腹部に両腕を動かした隙を逃さず、悠輝は仏眼の首を両足で挟むと、思い切り身体を捻った。足下からゴキっという音がする。
「裂気斬!」
遮断が解かれたのだろう、止めとばかりに験力の刃を放つ。海と同じ袈裟斬りにされ、仏眼は動きを止めた。
それを確認し、悠輝は朱理のところに駆け寄る。
「朱理ッ、だいじょうぶかッ?」
「応急処置はしてあるから安心なさい。明日、刹那が歯医者と病院に連れて行くわ」
「師匠は連れて行かないんですね?」
丸投げされた刹那が呆れ気味に言う。
「あなた、マネージャーでしょ?」
「それは師匠だって同じじゃないですかッ?」
「いいッ、おれが今すぐ連れて行く!」
「どうやって? クルマで行く気? あんたの運転じゃ、奥歯一本じゃ済まないわよ」
非道い言われようだがそれは気にせず、悠輝は姉の指摘に眉間に皺を寄せて一瞬考え込んだ。
「この船に歯医者と医者はいないのか?」
「歯医者はいないけど、医者なら一人いるわね」
間髪入れずに答える遙香に、空が驚いた顔をした。そこまで乗船者について把握していると思わなかったのだろう。
「それじゃ、そいつを呼び出して、朱理を診せてくれ」
「わたしより、おじさんが診てもらったほうが……」
相変わらず悠輝の顔は血まみれだ。一般的には、どう見ても彼の方が朱理よりも重傷だろう。
「こんなのかすり傷だ」
普通の人間なら紛れもない強がりだが、叔父の場合は事実を言っているだけだ。昨日の早朝も祖父に額を割られて血まみれだったし、今の方が少しだけ増しかも知れない。
「とりあえず、呼ぶから朱理は診てもらいなさい。悠輝は自力でなんとか……」
その時、異様な気配を感じた。それは仏眼が遙香に、このデッキに連れてこられる直前に放った気配だ。慌てて振り返ると、仏眼が操り人形のようなぎこちない動きで立ち上がろうとしていた。
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