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あなたとなら、生きて行ける
──フレックスタイムで働いている奏とは違い、今日も奏が恋い焦がれてやまないあの人は、定時に会社を出ることができなかったようだ。
「…」
その人の気配がないリビングに一人佇む奏の唇から、自然とため息が零れる。
…婚期を迎えている男二人が暮らす5LDKのマンションが夕暮れ色に染まる中、やるせないため息を零した奏は、自分が一番に帰ってきたのだと知り、その侘しさに唇を軽く噛んだ。
そうしてその思考は、やるせなさを抱いた同居人でもある、義兄へと…向かって行く。
寂しがり屋でもある奏の傍を離れずにいてくれる鷹也と出会うずっと以前に両親を亡くした奏は、姉と二人きりで生きてきた。
しかし、その頃から今も変わらず、気持ちが明るく前向きな姉のお陰で、奏は『孤独』を知らずに成長することができた。
…そんな姉に、これから先の人生を長く添って歩いて行く人ができた。
その人こそ、今、奏が帰りを待ちわびている人…鷹也だった。
優しさとしなやかな強さを併せ持つ姉に、鷹也を『恋人』として紹介され、いく年月かを二人と共に過ごしたのち。
『新婚』となったカップルにとっては、もはや邪魔者でしかないはずの自分に対し、義兄となって以降もいろいろと気を遣ってくれた鷹也の優しさもあって、本当に幸せな人生を送れてきたと思う。
だけど…
姉の恋人から、姉の伴侶になったその事実を目の当たりにしても尚、奏の胸には、鷹也を想う恋心が根づいていた。
──背が高く、眼差しの優しい義兄。
「鷹也さん…」
そっとその名前を呟くだけで、胸がざわつく。
あの人は姉を選んだのだから、一日も早くこんな想いなど刈り取ってしまわなくてはいけないと分かっているのに。
なのに、それなのに──…
と、苦くも甘い感傷を打ち消すように固定電話がベルを鳴らし、過去の想い出に意識を潜らせていた奏を、現実へと引き戻した。
「はい、真鶴でございます」
受話器を持ち上げ一拍置いてそう言うと、受話器の向こうから低音の甘い声が奏の名を呼んだ。
『奏君? やっぱりもう帰っていたね』
「! た…お義兄さん…」
街のざわめきと共に、鷹也の笑みを含んだ声が奏の心をくすぐる。
大好きな姉の恋人、そして、その夫となった人だと理解しながら、それでも好きにならずにはいられなかった人の声で名前を呼ばれた奏は、胸を締めつける甘い痛みに目蓋を閉じ、今にも好きだと叫び出しそうな己れを強無理矢理押さえ込んだ。
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